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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2008年10月4日


ススキ


来月11月24日は、長崎で「ペトロ岐部と187殉教者列福式」が行われます。25年の歳月をかけて準備された列福の実りがようやく実現しようとしています。今月と来月の「アレオパゴスの祈り」は、聖パウロの年に日本の教会に与えられた特別の恵みである殉教者の列福を思い、聖パウロの生き方と共通するキリストへの愛の証しを生きた殉教者を併せてご紹介しながら祈っていきたいと思います。

後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席にお戻りください。

パウロは、キリストのために何度も命の危険に遭いながらも、神への愛に駆り立てられて、ただひたすらみ言葉をのべ伝えました。パウロ自身が受けた労苦を語っている、コリントの第2の信徒への手紙を聞きましょう。

使徒パウロのコリントの信徒への手紙2 11.22~29

彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかいな事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
 

(沈黙)

パウロの旅は、徒歩で何千キロも歩かねばなりませんでした。現代と違い、交通の手段は徒歩と帆船のみでした。シリアのアンティオキアを出発する宣教旅行を3度行い、合計8000キロをはるかに超える道のりです。道とはいうものの海抜千メートルの高原にさしかかる険しい坂道や岩だらけの道、やっと通れるほどの小道で人家はまれにしかなく、危険な道でした。また、山崩れや気候の変動、いつ襲ってくるかわからない盗賊など、思いがけない難に出遭っても、それを乗り越えて行くだけの相当な覚悟がいりました。

今日、パウロの歩いた道をたどる人は、今もまだ残っているきびしい地を訪れて、パウロの信じがたいほどの労苦を思い、心に感動を覚えるでしょう。

このような自然界の外的苦難に併せて、さらにひどい困難は、人からやってくる苦難であることをパウロは語っています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度・・・同胞からの難、異邦人からの難、偽の兄弟たちからの難・・・」パウロの宣教の旅は、たえざる殉教の日々でした。

また、パウロは、健康上の障害にも襲われました。重い病気にかかり、第二回宣教旅行の途中、しばらくガラテア地方にとどまらなければならなかったと言っています。その病気が何であったかはわたしたちには、わかりませんが、人に嫌悪をもよおさせるものであったらしく、慢性で不治のはっきりしない病であったようです。しかしパウロは、神からこれらの困難に耐え抜く忍耐強さを与えられ、勝利を得ました。神からの不思議な力に対して、パウロは次ぎのように言っています。

「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態であっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリント2 12.7~10)

パウロのすばらしい勝利の秘訣は、“わたしは弱いときにこそ強い、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。”こう言い切ったパウロの神への信頼にすべてがあったのではないでしょうか。

しばらく個人的に祈りましょう。

「清い心で」 ① ② ③

パウロ年のこの年、日本の教会において、ペトロ岐部と187人の殉教者が列福されることは、わたしたちにとって大きな喜びです。彼らは、1603年~1639年の間に、きびしい迫害の時代、多くの苦難の後、命を賭けて、キリストを証し、信仰の道を示してくださった勇気ある殉教者たちです。選ばれた今回の殉教者たちは、司祭4名を含む全員が日本人であり、模範となる家庭人や女性、また22人の10歳未満の子どもたちも含まれています。

今晩は、その中で八代の殉教者と京都の殉教者についてご紹介しましょう。解説は、カトリック中央協議会から出版されている『ペトロ岐部と187殉教者』から抜粋いたします。

 
八代の殉教者

ヨハネ南は、一度信仰を捨てた若い侍だった。心から罪を悔い、償いを果たすならゆるしが与えられるとセルケイラ司教に教えられたとき、心の向きを変えた。その後、ゆるしの恵みに人生をゆだねた南は1603年12月8日、熊本で首をはねられた。翌9日未明にはシモン竹田が首を切られた。その夕刻、竹田の母ヨハンナと妻アグネス、南の妻マグダレナとその養子7歳のルドビコがはりつけにされた。最期まで神を語りながら槍を受けた気丈な母ヨハンナの姿は、冬晴れの夕陽のように群衆の心に焼きついた。遺体は朽ち果てるまでさらされた。

十字架からこぼれ落ちたその骨をひそかに有馬と長崎に送った信者がいた。ヨアキム渡辺とミカエル三石、ヨハネ服部。宣教師が肥後から追放されたとき慈悲人役に選ばれ、殉教に赴く者と残りの者たちの世話に走り回った信徒たちである。1605年、3人の慈悲役も捕まり、長く過酷な牢生活が始まった。

1606年、渡辺は獄中で病死、三石と服部は1609年2月4日、麦島で首をはねられた。そのとき彼らの息子、13歳のトマス三石と5歳のペトロ服部も処刑された。体に障害を抱えていたトマスは父の遺体のそばから離れず、なえた左手を右手で胸に引き寄せ、天を仰いで首を差し出した。5歳のペトロもすでに遺体となった父のそばに走りより、その小さな手でもろ肌を脱ぎ、両手を天にあげて首を切られるのを待った。そのあわれさに、処刑人は自分の務めを拒んだ。するとこの光景に耐えられなかった群衆の一人が走り出て手を下した。

1614年、その遺骨は、追放された宣教師によってマカオに運ばれ、1995年、マカオの中国返還を機にふたたび日本に戻った。信仰は体裁や大義ではなく、人として生きるためのただ一つの道であることを伝えるために、彼らはまた戻ってきた。

(沈黙)

 

続いて京都の殉教者をご紹介しましょう。

京都の殉教者

1619年の初め、徳川秀忠は新たに迫害を強化した。それまで無関心を装っていた京都所司代 飯倉勝重は、やむなくほとんどの信者を捕らえて牢に入れた。一般の罪人との獄舎生活は過酷さを極め、数人は獄死。伏見滞在中の秀忠は、いまだに牢内に信者がいることを知ると激怒し、釈放された者も含め全員の処刑を命じた。

1619年10月6日、キリシタン52人は、鴨川の近く大仏の真正面に引き出された。そこにはすでに27本の十字架が立てられていた。男性26人、女性26人、内15歳以下の子どもが11人を数えた。役人は、南の方から一番目の十字架にヨハネ橋本太兵衛をつけた。捕らわれたときからは、太兵衛が皆の支えになっていたことを役人は知っていたからである。中ほどの十字架には太兵衛の身重の妻テクラと5人の子どもがいた。テクラは3歳のルイサを固く抱いて立ち、両横に12歳のトマスと8歳のフランシスコが母と同じ縄で縛られて立っていた。隣の十字架には13歳のカタリナと6歳のペトロが一緒にかけられた。鴨川に夕陽が映えるころ、火は放たれた。炎と煙の中、「母上、もう何も見えません」と娘のカタリナが叫んだ。「大丈夫、間もなく何もかもはっきりと見えて、皆に会えるから。」そう励ますと、テクラはいとし子たちとともにイエス、マリアと叫び、崩れ落ちた。母は息絶えた後も、娘ルイサを抱きしめたままだったという。

なきがらを葬ったベント・フェルナンデスとディオゴ結城は、そのいのちの流れを受け継いで、やがて自らも殉教者となった。  (カトリック中央協議会『ペトロ岐部と187殉教者』)

『カトリック典礼聖歌集』No.321 「一粒の麦が地に落ちて」① ②

ペトロ岐部と187殉教者列福にあたっての祈り

   いつくしみ深い神よ、
   あなたは、聖フランシスコ・ザビエルの働きをとおして、
   日本の地に福音の種を蒔いてくださいました。
   その種は、信仰と愛を生きる共同体として大きく成長し、
   厳しい迫害の中でも、多くの信徒・司祭が、
   生と死をとおして主キリストをあかししました。
   江戸の殉教者 ヨハネ原主水(はらもんど)、
   ペトロ岐部(きべ)神父をはじめ、
   188人の列福にあたって祈ります。
   わたしたちも信仰の先輩にならい、
   神に対する信頼と人に対する愛をつらぬき、
   現代社会の中で、
   キリストの証人として生きることができますように。
   また信教の自由を含むあらゆる面での人権が、
   世界中どこにおいても尊重されますように。
   わたしたちの主イエス・キリストによって。
   アーメン。

自らも殉教者となったパウロはガラテアの信徒への手紙の中で、次のように言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きているのです。」

わたしたちが、キリストによって何かを行うとき、それは実はキリストがわたしたちの中で働いてくださっていることを深く体験するようになると教えてくださっています。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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