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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2009年5月2日


詩編23

   主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。
   主はわたしを青草の原に休ませ
   憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。
   主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
   死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。
   あなたがわたしと共にいてくださる。
   あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。

   わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
   わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
   命のある限り 恵みといつくしみはいつもわたしを追う。
   主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
 

ドウダンツツジ

 

4月12日に主のご復活を祝い、明日は、復活節第4主日を迎えます。明日読まれる福音は、ヨハネによる福音書の10章にある「羊と羊飼い」のお話です。ここには、良い羊飼いとして命を与えるイエスと羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています。今晩のアレオパゴスの祈りでは、「わたしは良い羊飼いである」と言われるイエスが、羊飼いのたとえをとおして語られる神さまの御心に触れてみたいと思います。

今晩も、神さまのみことばを聞くために集まったわたしたち一人ひとりに、心の平安と祝福を求めてローソクをおささげいたしましょう。

先ほど朗読した、旧約聖書の詩編23は、イスラエルの王であったダビデが、羊飼いであった少年時代を思い出しながら、神さまの豊かないつくしみと恵みを賛美している美しい詩です。詩編の中で最も良く知られ、ユダヤ人たちがいつも好んで唱えていたものでした。聖書の書かれた時代は羊飼いと羊のたとえはとてもなじみのある分かりやすいたとえでした。

神さまは羊飼いとして、羊であるイスラエルを守り、導かれました。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」とイザヤ預言書の中にも記されています。(イザヤ40.11) 羊飼いのおもな仕事は、羊の群れが十分に食べることができるような牧草地に導き、また飲み水を与え、野獣から羊を守ることです。その時代、羊は、ユダヤ人が最も愛した動物でした。その性質はおとなしく、素直で従順である反面、愚かで、弱く、迷いやすい面をもっています。ダビデは、ゴリヤテを倒した羊飼いの少年時代から、サウル王に命をねらわれて追われていたときも、後にイスラエルの王となってからも、主が自分の羊飼いとなって、どんなに豊かに養ってくださったかを感謝と賛美をもって歌っています。またこの詩は、キリスト教の伝統にも受け継がれて神さまへの信頼を表すための祈りとして大切にされてきました。

詩編23番が歌われている典礼聖歌をご一緒に歌いましょう。

『典礼聖歌集』No.123 「主はわれらの牧者」 ① ②

明日読まれるヨハネによる福音書を聞きましょう。

ヨハネによる福音書10.11~18

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
 

(沈黙)

今読まれたの福音は、「わたしは良い羊飼いである。」ということばで始まっています。わたしたち日本人にとって、羊飼いは身近なものではありませんし、羊という動物もわたしたちの生活の中にはほとんど見られません。オーストラリアや中近東などでの写真や映像で知る程度にすぎません。

しかし、イエスが生活されていた当時のパレスチナでは、どこにでも日常に見られる光景でした。イエスは、宣教活動の中で、何度も羊飼いのたとえを話したということが、聖書の中で伝えられています。当時のユダヤ人たちにとって、羊と羊飼いの関係は、ピンと来る特別な存在だったと言えるでしょう。わたしたち日本人が、イエスのことばのほんとうの意味を理解するためには、羊と羊飼い関係を知ることが大切だと思います。

パレスチナの羊飼いたちは、貧しい人たちでした。羊を飼うために雇われていて、毎日毎日、朝には主人の羊の群れを野原に連れ出して、夜になると連れ帰りました。羊は囲いの中に入れられていて、大切にされ一匹一匹名前をつけていたそうです。慣れた羊は名前を呼ぶと羊飼いのもとによってきました。たくさんの数の羊ですが、毎日接していると羊の特徴が分かります。どこかの毛に斑点があるとか、耳にちょっとした傷があるとかで分かります。羊も羊飼いの声を聞き分けて、ついていきます。すべての門の柵から羊を外に連れ出すと、先頭に立って歩く羊飼いに羊はついていきます。イエスは、このような日常の生活の中から身近なたとえを使って、人々に分かりやすく話しておられました。

善き牧者としての幼児キリスト
善き牧者としての幼児キリスト

 

古代のキリスト教の教会では、イエスのことを「良牧者」と呼んでいました。ぴったりのイメージがあったからでしょう。ローマのカタコンベは、キリスト者が迫害を受けていたころ、隠れていた場所として知られていますが、壁画に、良い牧者としてのキリストの姿が描かれています。捕まったら殺されるという時代に、彼らは地下の墓地であるこのカタコンベに集まっていました。そして、イエスが"良い羊飼いである"ことを信じ、どのようなときにも自分たちを導いてくださる方なのだと確信して壁画に表していたようです。これは、おそらくキリスト教の芸術の中では、最も古いものの一つに数えられているものでしょう。

羊飼いのたとえは、旧約聖書の時代から何度か出てきていますが、ここでその中の一つ、エゼキエル預言書の中にある、神さまの業、その導きを表している箇所をご紹介しましょう。

エゼキエル預言34.11~16

「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに。その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また住居地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神が言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。
 

この書物は、エゼキエルという預言者が、紀元前6世紀の前半に書いたものだと伝えられています。ちょうど イスラエルの民がバビロンに連れて行かれたころのお話です。バビロンという地で捕らわれの身にあったユダヤ民族に、エゼキエルをとおして、神さまは自ら失われた羊たちを集め、慰め、導いてくださり、良い牧草地に連れて行ってくださることを語っています。このように旧約の時代から、羊飼いのたとえは、ひんぱんに登場していることが分かります。

さて、お話は、もとに戻りますが、羊飼いには、大きな使命が任されています。それは、羊が狼や盗人の餌食にならないように細心の注意を払って守ることです。また、迷った羊がいると、どんなに犠牲を払っても見つけるまで探し続けるという大仕事です。ここで良い羊飼いかどうかが決め手になります。狼が来ると、自分の身の安全を考えて羊のことなど投げ出して逃げてしまう羊飼いもいるでしょう。自分の利益を第一に考えて行動する羊飼いと、羊のために命を賭けて敵と戦う羊飼いとの大きな違いが浮かび上がってきます。

イエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と約束してくださいました。決して見捨てることなく、最後の最後までわたしたちと一緒にいて敵と戦い、守ってくださる方です。イエスこそ失われた羊をどこまでも探し続ける羊飼いです。

わたしたちが、人生のさまざまな局面で悲しみや苦しみを体験するとき、どうして良いか分からなくなってしまったとき、自分の力ではどうしても解決できないとき、何をしたら良いのか方向が見つからないとき、そのようなときにこそ、このイエスの姿を思い浮かべましょう。イエスが語った羊飼いのたとえは、わたしたちに大きな力と確信を与えてくださいます。

『典礼聖歌集』No.80 「神よ わたしに目を注ぎ」 ① ②

『パウロ家族の祈り』p.254 「良い牧者イエスへの祈り」

   道・真理・生命である良い牧者イエス、
   あなたの羊の群れにいつくしみの目を注いでください。
   あなたの福音でわたしたちを照らし、模範によって強め、
   聖体で養ってください。
   神の栄光と人々の救いのための熱意でわたしたちを満たしてください。
   教会の牧者たちのうちにおられるあなたに対して、
   わたしたちが犯した罪を償うために、彼らの教えと熱誠のわざに温順に従い、
   協力し、彼らのために祈り、召命に従って
   ともに働きたいのです。
   良い牧者イエス、あなたの霊を送り、
   わたしたちの信仰、希望、愛を成長させてください。
   まことの修道精神を強め、使徒ペトロとパウロの単純、賢明、剛毅、節度を
   わたしたちにもお与えください。
   良い牧者の母マリア、あなたの霊的、使徒的生活に倣い、
   天の栄光に入ることができるように、
   わたしたちの上にみ手を置いて守ってください。アーメン。

毎年、復活節第4主日は、「世界召命祈願日」と定められ、今年は、明日がその祈願日にあたっています。自分の生涯を神さまに捧げ、人々への奉仕に生きる司祭・修道者を目指す若い人々が、神さまの呼びかけに気づき一人でも多く応えていけるようにとお祈りください。

『パウロ家族の祈り』p.251 「召命を得るための祈り」

   師イエス、
   「収穫は多いが、働き手が少ない。
   だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、
   収穫の主に願いなさい」と仰せになったあなたの招きに従って祈ります。
   召命のために働くすべての信者の熱意を呼び起こしてください。
   多くの人が司祭に召されますように。
   御血によってあがなわれた人類の救いのために彼らが地の塩、
   世の光、山の上に建てられた町となりますように。
   多くの人が修道生活に召されますように。
   彼らを受け入れる修道院が全地に広がり、
   「神に栄光、人々に平和」とたたえるための
   光と熱の源、信心の泉、聖人たちの園にしてください。
   神に選ばれた方マリア、
   あなたは召命の母であり、守り手です。
   どうか、わたしたちとともに、わたしたちのため、
   また、神に召されたすべての人のために祈ってください。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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