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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2010年2月6日


白梅



新しい年、2010年も2月に入り、立春を迎えました。今年も、“アレオパゴスの祈り”をとおして、神さまの愛とやさしさに触れていけるよう、めぐみを求めてご一緒にお祈りしてまいりましょう。

皆さまは、新年を迎えられたとき、神さまにどのような願いをされたでしょうか。今年はじめての「アレオパゴスの祈り」の中で、お一人ひとりの祈りの意向をもって、ローソクをささげましょう。それに併せて、ハイチの大地震によって苦しんでいるハイチの人々ために、必要とされる援助が与えられ、この困難を乗り越えていくことが出来るよう祈りましょう。後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげましょう。

明日、2月7日のミサの中で朗読されるルカ福音書は、漁師ペトロとイエスとの出会いが記されています。イエスの呼びかけにこたえて弟子となったペトロは、後に、イエスの後継者となり、今度は、人をとる漁師になりました。初代教皇ペトロのお話を聞きましょう。

ルカ福音書 5.1~11

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのをご覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこでもう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚がいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。

これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた 者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを棄てて従った。
 

今、読まれた福音書は、ペトロがイエスの呼びかけにこたえたエピソードです。ペトロは、ガリラヤの漁師でした。ガリラヤ湖の北に位置するベトサイダの出身で、イエスと同世代か、少し年下であったと言われています。ベトサイダは漁獲量を誇るガリラヤ湖有数の漁師の町で、おそらくペトロも先祖代々続く漁師の家に生まれ、父や兄弟とともに漁業をして暮らしていたと思われます。

さて、ペトロと仲間たちは、夜通し働き、何もとれませんでした。朝早く、暗いうちが魚がいちばんとれるときで、日が昇るともうダメになります。彼らは、あきらめて舟から上がって網を洗っていました。そこにイエスが来られ、ペトロに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われます。せっかく網をほぐして洗っていたのに、もう一度出かけろと言うのです。ペトロが疲れ果てているのを知っていながら、もう一度沖に出て網を打つことを命じられました。漁のことは何も知らないイエスが、漁の専門家であるペトロに命じられたのです。プロの漁師としては、夜通し働いてとれなかった魚が、日中になってとれるはずがないと思ったでしょう。

わたしたちには、夜通し働いてもうまくいかないことは、よくあります。一生懸命にやったのに失敗したとか、無駄だったとか、後に疲れだけが残ったとか・・・でも福音書のメッセージは、神のことばが語られるとき、人間の弱さが実りをもたらすことを伝えています。それは、人間の努力によるのではなく、"網をおろしなさい"と言われたら、自分では無駄ではないかと思っても網を降ろしてみることへの信頼です。

神は、人間の常識や知恵をはるかに超えて大きな実りをもたらされます。それが実りをもたらすとか、もたらさないとかということは、人間のほうが決めるのではなく、神の決めることだと聖書は語っています。ペトロは、それがわかったのでしょう。自分の力ですべてを取り計らおうとしていたことを。神を知るということは、自分を知るということに通じていることを。神を知らない人は、自分の罪深さも知りません。しかし神を深く知った人は、神の前で自分がいかに小さな者であるかを知っています。

イエスとペトロ

ペトロは、イエスの心の深みに触れました。イエスの弟子になるのは、信仰深い人間だからでなく、特別に能力にめぐまれているからでもありません。神は、弱い人間を道具として使おうとされるのです。それが神のなさり方です。人間の方から何かを成し遂げようとするのではなく、自分を明け渡して、神の道具になろうとすることを望んでおられます。イエスは、「恐れることはない」と言われます。それは、今のままのあなたでよいということです。有能だからとか、何かよいことをしたから、とかいう理由で、あなたを弟子として呼ぶのではないということです。わたしがあなたを弟子にするなら、同時に働く力もわたしが与えるということでしょう。

ヨハネ福音書の中に「あなたたちがわたしを選んだのではなく、わたしこそあなたたちを選んだのである」(ヨハネ15:16)というイエスの言葉があります。これも同じことを言っています。わたしがよいことをしたからとか、よくお祈りをしたからとか、よく勉強をしたから、それでイエスのことがわかるのではなく、イエスの方から自分の望みに従って弟子を選び、その人たちに霊を与えられます。その霊によってその人は、導かれイエスのことを理解できるようになっていきます。

「これから後、あなたは人をすなどるようになるだろう」これは、イエスが直接にペトロに言われた言葉ですが、教会を立てる約束の言葉です。弱い人間をとおして神の力が働きます。何の学問もない、平凡なガリラヤの漁師であったシモン・ペトロが、後に当時の学者たちに向かって堂々とキリストの福音を述べ、また、世界を支配していたローマの政治家たちに向かって、申し開きをするようになります。ペトロが、「わたしから離れてください。わたしはあなたの弟子になる資格のない者です」と言ったとき、イエスは、「それでいいんだよ」と言われたのです。「その弱さのままでよいから、わたしについてきなさい」そう言われたとき、ペトロに残されたことは一つしかありませんでした。「こんなわたしでもよいとおっしゃるなら、わたしは一切を捨ててあなたに従います。」これがペトロの答えでした。

『カトリック典礼聖歌集』No.324「ペトロはこたえます」① ② ②

言い伝えによると、紀元67年、皇帝ネロのキリスト教徒迫害が始まったとき、ペトロは、信者たちの勧めでローマを脱出しようとしていましたが、アッピア街道をとおって逃げる途中のペトロの前に十字架を背負ったイエスがお現れになりました。ペトロが、「ドミネ・クオ・ヴァディス(主よ、どこへ行かれるのですか)と尋ねると、イエスは「エオ・ローマム・イテルム・クルキフィーギー(わたしは、ふたたび十字架につけられるためにローマに行くところだ)とお答えになりました。ペトロは、それを聞いて自分の使命を悟り、ローマにすぐに引き返し、進んで十字架に逆さまにつけられて殉教を遂げました。ペトロが処刑された場所に、サン・ピエトロ大聖堂が建てられています。

ペトロは、ローマの司教として33年勤め、その最期を殉教によってまっとうしました。 後に、ローマの司教は全教会の司教団の頭、つまり「教皇」としてペトロの使命を受け継いでいくことになりました。 そのため教皇職は、ペトロの座とも呼ばれています。

しばらく沈黙のうちに祈りましょう。

(沈黙)

「働く人の祈り」をご一緒に唱えましょう。

『パウロ家族の祈り』p.294

   神の子イエス、あなたは労働にいそしみ、働く人の友となられました。
   いつくしみのまなざしを労働の世界に注いでください。
   知的、精神的、肉体的労働にたずさわる人びとの必要に心をとめてください。
   あなたは多くの労苦と苦しみ、困難な日々を過ごしているわたしたちをご存じです。
   心身の苦しみに目をとめ、
   「わたしはこの人びとをあわれに思う」
   と言われた、み心の叫びを今も新たにしておられます。
   勤労者、職人の模範聖ヨセフの功徳と取り次ぎに信頼するわたしたちを
   励まし力づけてください。
   労働の日々にあなたを支えた知恵と徳と愛を、
   わたしたちにも与えてください。
   信仰と平和、節度と節約の精神を注ぎ、
   日毎の糧とともに霊的善と天の国を求める心を与えてください。
   真理を歪め、摂理への信仰と信頼を奪う者から、
   わたしたちを救ってください。
   人間の権利と尊厳を無視して搾取する者から、
   わたしたちを解放してください。
   社会の法が福音の光に照らされますように。
   愛と正義が共存し、すべての人が誠実に協力し、
   ともに育っていく社会にしてください。 アーメン。

新約聖書の中に、64年から65年にペトロによって書かれた手紙があります。最後に、イエス・キリストの使徒であるペトロの手紙を聞きましょう。

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。 ペトロ1 3.9~11
 
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 ペトロ2 3.8~9
 

これで「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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