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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2010年7月3日


カンパニュラ・アルペンブルー



   「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
   休ませてあげよう。
   わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、
   わたしに学びなさい。
   そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
   わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
   (マタイ11.28~30) 
 

今晩のアレオパゴスの祈りは、新約聖書の中に登場する女性、「マグダラのマリア」と「サマリアの女」の2人の女性について見ていきたいと思います。彼女たちは、イエスとの出会いによって、それまでの生き方をきっぱり捨ててイエスに従った勇敢な女性たちです。マグダラのマリアは、ひたすらイエスを捜し続け、復活したイエスに出会いました。もうだれにも奪われることのない永遠の喜びが彼女の心を満たしてくれました。カトリック教会では、毎年、7月22日にマグダラのマリアを記念しています。

また、「サマリアの女」もイエスとの出会いによって、決して渇くことのない永遠の命に至る水を得ることができました。ここに集うわたしたちも永遠の主イエスに出会う喜びを体験することができますように。

それでは、ローソクを祭壇にささげましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席へお戻りください。

マグダラのマリアは、新約聖書にある四つの福音書すべての中に登場する、重要な役割を担った女性です。彼女は、その呼び名の示すとおり、ガリラヤの湖のほとりにあるマグダラという町で育ちました。ルカ福音書には、「7つの悪霊をイエスによって追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリア」(ルカ8.2)と書かれています。

ちょうどその直前の福音書の場面に、罪の女がイエスの足もとに近寄って、泣きながらイエスの足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、香油でイエスの足をぬぐったというエピソードがあるので、その女がマグダラのマリアと同一人物として解釈された時もありましたが、現代では、罪の女とマグダラのマリアとは別の人であるとされています。

それでは、主の復活の朝、イエスがマグダラのマリアに現れたことが書かれている、ヨハネ福音書を聞きましょう。

ヨハネ福音書 20.11~18

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
 

マグダラのマリア
復活のイエスとマグダラのマリア

 

マグダラのマリアは、七つの悪霊に悩まされた状態にあり、社会から疎外され、罪人として世間から後ろ指をさされるようにな女性だったようです。おそらく、彼女は、ある時イエスに出会い、それまでのすさんだ生活から解放され、イエスに従って新しい生活を始めた勇気ある女性だったのでしょう。ルカ福音書の中に、イエスの宣教の旅に同伴した女性たちの一人だったことが記されています。

教会の伝統の中では、マグダラのマリアは美しく魅力のある女性として描かれています。それは、その容貌が美しかったというよりも、イエスを心から愛し、その純粋な愛のゆえに、美しい女性として描かれているようです。マリアは、他の弟子たちが逃げてしまった時も、勇敢に十字架のイエスのそばに最後まで、付き添った一人でした。

聖書が、復活されたイエスが真っ先にマグダラのマリアに現れたことを伝えているのは、不思議なことでもあります。当時ユダヤの社会では、女性は、公の証人として認められていませんでした。

復活の日の朝、悲嘆に暮れていたマリアには気づかない、何か新しいことが始まっています。新しい世界が生まれつつあります。

聖書は、イエスがそこに立っていても、マリアには、イエスだとわからなかったということを記しています。復活したイエスとの出会いが、それまで経験してきたような世界の次元ではないことがわかります。わたしたちが日常の生活の中で、だれかと出会うこととは違って、復活の主イエスとの出会いの特別な性格を示しています。

イエスがマリアの名前を呼んだ時、その一言で、マリアは、自分の飼い主から呼ばれた羊のように、その声を聞き分けました。その時、彼女の目が開け、新しい世界を見ることができました。「彼女は振り向いて」と書かれています。この短い箇所の中に、「振り向く」という言葉が2回使われています。ただ単に後ろを振りかえるということだけでなくて、全生涯の転換ということを意味しているようです。その時マリアがまったく変えられた、全存在が変えられた、言わば、闇の中に沈んでいた状態のマリアが、イエスの一言で、喜びと希望の中に置かれたのです。

イエスは、言われます。「わたしにすがりつくのはよしなさい」と。マリアは、イエスに出会った喜びのあまり、イエスの足にすがりついて、もう二度と離すまいとしたのでしょうか。「わたしはまだ父のもとに上っていない」と言われます。これは、わたしたちの地上の生活が、まだ旅路の途上にあることを語っています。マリアにとっては、つき放されるような言葉だったかもしれません。でも、彼女は、イエスから命じられてことを果たすために出かけていきました。

イエスは、「わたしの兄弟たちのところへ行って、わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と言いなさい。と派遣されたからです。新しい人とされたマリアは、弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と告げ、復活のイエスの証人として、イエスの復活の出来事をいち早く伝えました。マリアは、信仰によって新しくされた人生を、熱意と強い意志をもって生き始めました。

『祈りの歌を風にのせ』P.50「マグダラのマリアよ」① ③ ④

(沈黙)

次に、ヨハネ福音書に書かれている「サマリアの女」の箇所を聞きましょう。

ヨハネ福音書 4.3~30、39~41

イエスは、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。

正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。するとサマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくていいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません。」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたが知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父は、このように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られる時、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話しているこのわたしである。」

ちょうどその時、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話をしておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さぁ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方が メシアかもしれません。」人々は、町を出て、イエスのもとへやって来た。

さて、その町の多くのサマリア人は、「この方がわたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
 

サマリアの女
イエスとサマリアの女

(沈黙)

真夏のお昼どきに、ある女性が一人で、シカルという町から、ヤコブの井戸へ歩いています。普通、女性たちが水をくみに来るのは、早朝です。わざわざ昼頃に井戸に来るのは、おそらく他の女性たちを避けるためだったと考えられます。

当時、水汲みは女性の仕事でした。女性たちは、朝は生活用の水、夕方は家畜用の水を井戸にくみに行く習慣がありました。集まった女性たちは、一緒に共同作業をしたり、村のニュースや他人のうわさ話などをしたりしていたのでしょう。

彼女は、日照りの強い、水も蒸発しやすい真昼に一人で水をくみに来ます。この女性には、人目につきたくない理由がありました。それまでに5人の男性と一緒に生活した経験がありました。今は6 人目の人と一緒にいます。彼女は、うしろめたい気持ちで、自分の方から交わりを避け、孤立した人生を生きていたのでしょう。

イエスは、ユダヤからガリラヤに戻る途中、サマリアを通り、ヤコブの井戸まで行きました。昼どきです。強い夏の日照りのもとで人影もなかったでしょう。しかし、イエスは、まるで、だれかを待っているかのように井戸のそばに座っておられます。

そこにサマリアの女が水をくみにやって来ます。イエスは、ご自分の方から「水を飲ませてください」と話しかけられました。歴史的、宗教的な背景もあって、普通、ユダヤ人が異教徒との混血の子孫であるサマリア人に話しかけるということは考えられないことでした。

井戸の傍らで、「水を飲ませてください」というイエスと女性の対話が始まり、水をテーマにして、イエスは、女性を深い次元へと導いていかれます。物質的な水から、霊的な水へと、彼女の内面の渇き、傷ついて冷え切った心の奥に命への渇きがあることを見抜いておられたのです。

イエスは、「生きた水」「決して渇かない水」「永遠の命に至る水」とは、すべてに命を与える神の霊であることを教えます。

話題は、女性のプライベートな生活に触れていきます。イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われると、彼女は答えて、「夫はいません」と言いました。「夫はいないと言ったのはもっともだ。夫は5人いたが、今いるのはあなたの夫ではない。あなたの言ったことはほんとうである」とイエスは、この女性の過去にこだわることなく、彼女の言った正直さを評価しました。

この女性は、初めて出会うイエスが自分の過去をすべて知っていることに驚きを隠せなかったでしょう。しかもイエスは、あるがままに受け入れてくださったのです。彼女の心は、今こそ神の絶対的な愛に身をまかせようと大きく開かれていきました。

イエスは、彼女に深い信頼を寄せて、核心を伝えました。「婦人よ、わたしの言うことを信じなさい。・・・霊と真理によって、父を礼拝する時がきている。今がその時である」と。場所にとらわれることなく、「霊と真理」をもって神を礼拝する時が、今、来ようとしていること、サマリア人も「まことの礼拝」をするようになることを告げます。

そして、彼女はイエスを目の前にして言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られる時、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」サマリアの女は、ただの疲れた旅人イエスから、主であり、永遠の命に至る水を与える人、全知の人、預言者、メシアへとイエスの本来の姿がわかるように導かれていきました。イエスは、彼女に「それは、あなたと話しているこのわたしである」とご自分のことを証されます。

自分が解放された後、喜びのゆえに、彼女は、メシア・イエスを町のサマリアの人々に伝えに行きます。この証しによって、サマリアの人々は、イエスを信じる者になったと福音書は伝えています。

2人の女性がイエスと出会って、人生がまったく変わったのは、傷ついた心の奥底に、本物への憧れ、渇きがあったからでしょう。長い間、差別とはずかしめの中で、自分ではどうしようもない状態からの救いと解放に渇いていたと言えるでしょう。心の底にあって自分さえ気づいていなかった叫びが、人ではなく、神の救いへと導いていきました。神を求め続ける態度、罪を犯しても赦しを願う謙遜な態度は、永遠の命への道へとつながっていきました。

祈りましょう。
あわれみ深い主よ、わたしたちは、しばしば間違いを犯してしまいます。
その間違いに気づくめぐみをわたしたちにわかる方法で教えてください。
「マグダラのマリア」や「サマリアの女」のように、自分を見つめる勇気と自分を変える勇気を与えてください。
わたしたちは、不完全なものですが、もっとあなたに似たものとなっていきますように。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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