home>祈り>アレオパゴスの祈り>2013年9月

アレオパゴスの祈り

バックナンバー

アレオパゴスの祈り 2013年9月7日


ブドウ



十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵のある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」・・・・・

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわちユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
                  (1コリント 1.18~19、22~25)

9月14日はキリストが十字架で亡くなったことを記念する十字架称賛を祝います。エルサレムでは、5世紀からこの祝日を祝っていました。次第に東方教会全体に広まり、ローマにこの習慣が取り入れられたのは、7世紀になってからでした。キリスト者の救いと勝利の希望であるキリストの十字架を思い起こして祝う日です。

今晩の「アレオパゴスの祈り」は、十字架に架けられ、亡くなっていくイエスの姿をしっかりと見つめたいと思います。そして神の子がその身に担ってくださった十字架の重みをとおして、真のメッセージを汲み取ることができますように。この十字架の意味、十字架を称賛するという意味について考えてみたいと思います。死に打ち勝つことのできる本当の愛を、十字架の姿で身をもって示してくださったイエスに、わたしたちも自分の十字架を担って従っていく恵みをともに祈りましょう。

それでは、後ろでローソクを受け取り、それぞれの祈りの意向を込めて、祭壇にささげましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席にお戻りください。

わたしたちはいつも教会の中で十字架を目にしていますが、教会の建物の中に初めて入った人がまずどのようにとらえたらよいか とまどうのが、十字架に架けられたイエスの姿だと思います。教会やキリスト教に対してよいイメージを持っていたとしても、この十字架の姿の意味は簡単に理解できるものではないでしょう。十字架には人間がとらえる救い主のイメージと実際にイエスが示された救い主の姿の違いが表されています。

わたしたちはだれでも救いを求め、神の助けを必要と感じます。憐れみとあたたかさで包んでくれるような神の姿を求めています。しかし実際にイエスが神の子として、そして真の救い主としてご自分の姿を現してくださったのは、へりくだり、御自分を無にして十字架に架ける姿でした。この世で栄光に輝き力に満ちた神の子としての姿ではなく、ぼろぼろになり、人間から侮辱され辱められた姿をその身に帯びてくださいました。その姿をとおして、わたしたちを救い、神のわたしたちへの思いを示してくださいました。

今日は、マルコ福音書の受難物語から、イエスが十字架につけられて亡くなるまでの場面を読んでいきましょう。

マルコによる福音書15.16~32

兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いていき、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。

このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所、その意味は「されこうべの場所」に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。

それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

(沈黙)

十字架刑は、当時の習慣で、ローマ軍がローマの秩序に背く反逆者を捕らえてみせしめとして行われた残酷な刑罰です。古代の歴史家ヨセフスは、紀元前4年に反乱を起こしたユダヤ人たちが、ローマ軍によって一度に2000人が十字架刑で処刑されたことを伝えています。十字架に架ける前にその囚人をさんざんに鞭打ちます。今も当時のローマ人たちが使っていた鞭が残っていますが、革の先に小さな鉄のたまがついていて、これで激しく打つと、肉も破れて骨まで達します。兵士たちは鞭打ってイエスを傷めつけました。

それからイエスをあざけるために当時の王様が着せていた紫の服を着せ、冠のかわりに茨の冠をかぶせます。イエスはたった一人で、大勢の兵士たちに取り巻かれ、あざけられました。

そして、兵士たちは十字架につけるために引き出したと書かれています。重い十字架を担わせて、町の中を引きまわします。みせしめの刑ですから、自分が架けられる十字架をかつがされ、町の中でみなが見ている前をとおって刑場に向かいます。イエスの敵対者たちはそれを見てあざけり、また彼に従ってきた人たちは嘆き悲しんだことでしょう。

ここでシモンというキレネ人が通りかかって無理やりに十字架を担う手伝いをさせられたと書かれています。イエスは、弱り果てて、力尽きて、重い十字架を担うことができない状態になっていたのでしょう。当時のローマ軍は、手当たり次第にユダヤ人を労働のために使うことができたようです。初代のキリスト者の間で、イエスの十字架を担った人の名前がはっきりと伝えられている所を見ると、おそらく教会の中でよく知られていた人物だったと思います。偶然にその場にでくわしたシモンは、かけがえのない名誉として言い伝えられ福音書の中に記されました。

イエスは、ゴルゴタという所に連れて行かれました。そこはエルサレムの城壁の外にありました。岩でできた小高い丘があって、その上に囚人たちが十字架の上でさらしものにされて、人々が見ることができる場所でした。イエスは、そこで十字架につけられます。兵士たちが十字架の横木に釘で手を打ちつけ、ロープを使って引きあげて縦木に固定させ、今度は足を釘で打ちつけます。激しい痛みに、受刑者の苦しみは言葉を絶するものだったことでしょう。

聖書には、イエスと一緒に二人の囚人がイエスの右と左の十字架につけられたと記されています。彼らは強盗と書かれていますが、ものを盗むために人を殺したということではなく、ローマの秩序に逆らおうとしたユダヤ人たちの反乱軍か革命家たちのことだったらしいです。ローマ人たちはそのような人たちを強盗と呼んでいました。イエスもローマ人たちにとっては、国の秩序を乱す危険な思想の持ち主だと考えられていました。だから、そのような人として裁かれました。

続いて、マルコ福音書が語っているイエスの最後の場面を聞きましょう。

マルコによる福音書15.33~39

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。

しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。


十字架


(沈黙)

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。とあります。このイエスの最期の場面は、彼にとってまったくの闇のときでした。また同時に主イエスを十字架につけて殺してしまうという全世界の中で闇の力が支配するとき、人々の憎しみと権力欲とねたみが勝利を収めてしまうとき、その闇のときです。

イエスは、その闇の力と闘う者として登場し、闇の力によって死刑にされました。この闇の真っただ中で、イエスは叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と。この言葉は非常に衝撃的です。古来のキリスト者たちのつまずきにさえなっていました。この言葉は、あたかもイエスが絶望に陥ったかのように聞こえます。敬虔なキリスト者たちには、この言葉がよく理解できませんでした。自分たちが主と仰ぐ方の言葉として、あまりにもみじめで絶望的だったからです。自分の考えや望みが全部消え去って、頼りにできる知恵や意志がもはや何の助けにもならず、人間の側から見て、何一つ期待できない状況です。苦しみと孤独の真っただ中で、どん底で、イエスは父に叫びました。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」この言葉は、旧約聖書の詩編22番の冒頭にある言葉です。この詩は、苦しみの訴えの言葉で始まり、最後には信頼に終わっています。ユダヤ人たちは、詩編を毎日唱えて暗記していました。イエスもまた詩編の祈りを唱えていたでしょう。この十字架の上で、イエスは、叫びながらも、この詩編のように最後の死の瞬間まで、神へ信頼して、叫び続けたということを物語っているのではないでしょうか。

マルコ福音書は、イエスの死について、非常に痛ましく描写しています。ルカ福音書では、このイエスの息を引き取る前の場面を少しやわらげて描いています。「父よ、わたしの霊を見手に委ねます」という、祈りの言葉に置き換えています。また、ヨハネ福音書の記述を見るとすべてが「成し遂げられた」とイエスの死が神の永遠の計画を実現した神の子イエスの姿であったことを語っています。

マルコ福音書のイエスが十字架の上で亡くなっていく姿を見て、いろいろなことを考えさせられます。わたしたちの運命もまた同じように苦しみやみじめさを持っています。なぜ、この世界には苦しみが尽きないのだろうか。なぜ病気や災害があるのだろうか。なぜ神様はこれほどの苦しみをゆるされるのか。と問いたいことが山ほどあります。

なぜこの世界に苦しみがあるのか、この質問の答えは、だれにも答えることはできません。この答えは、イエスの十字架の死を見つめることから学ぶことができると思います。イエスが、孤独と苦しみと死という人間のもっともみじめな運命をその身に引き受けてくださったこと、ここに神様の愛が示されています。弟子たちは、たとえ卑しく見るものであっても、神のなさる業を受け入れることによって、神が救いの道具とされたことを理解しました。それから、弟子たちは、自分の命を賭けてイエスの十字架こそが神の業であり、救いであることを力強く宣べ伝えていきました。

パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、次のように言っています。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」

わたしたちには、やむをえずふりかかってくる運命というものがあります。人から批判されたり、自分の善意にもかかわらず不名誉な汚名を着せられたりすることがあります。少なくともわたしたちは、自分が望むと望まないにかかわらず、苦しみや悩みがふりかかってくるのを体験します。そんなときイエスの十字架を思い起こしてみましょう。そのときこそ、イエスの心を自分の心とすることができるのではないでしょうか。自分の中にいるイエスがわたしとともに悩み、苦しみ、祈っていてくださることを実感することができるなら、イエスともにこの苦難を乗り越え、イエスに似たものとなっていけると思います。

(沈黙)

イエスが十字架の上で息を引き取ったとき、闇の力が勝ち誇りすべてが終わってしまったかのように見ました。ファサイ派の人たちや祭司長、長老たちにとっては、自分たちの陰謀が成功し、邪魔者を抹殺できてほっとした瞬間でした。弟子たちにとっては、あきらめと絶望のどうしようもない恐怖と敗北感にうちのめされた瞬間です。人間的な目で見ると、イエスは何一つ、神であるというしるしを表しませんでした。

民衆は、「十字架から降りて自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」としるしを求めました。しかしイエスは、それに対して沈黙で答え、神の力強さはどこにも見られませんでした。

イエスが息を引き取ったすぐ後、十字架のもとで異邦人である百人隊長が「まことにこの人は神の子であった」と言っているのは、とても不思議な感じがします。この福音を書いたマルコは、神が神であることのしるしを違う観点から見ています。より確かな証として、愛の中に見ようとしています。イエスの受難が始まると病や悪霊を追放する力強いイエスの姿は消えていきます。

そのかわりに、どんな苦しみがやってこようとも耐えていく愛の力強さがあらわれてきます。自分を殺そうとする悪や憎しみがのしかかってきても、弟子たちに裏切られても、愛の道を歩み続けられます。どんなに苦しくなって追い詰められてもゆらぐことはありませんでした。十字架の死にいたるまでの愛の道を救いのために自分をささげつくしたイエスの中に、マルコは、本物の神の愛の姿を見て、異邦人であるローマの百人隊長の口をとおして「まことにこの人は神の子であった」と宣言しました。

イエスは、十字架の死をもって悪の闇を打ち破りました。イエスの十字架の神秘を見つめ続けることによって、わたしたちは、自分の十字架を担ってイエスに従って歩いていく力をいただけると思います。

最後に新約聖書のペトロの手紙を聞きましょう。

1ペトロの手紙 2.21~24 (訳は『教会の祈り』より) キリストはわたしたちのために苦しみを受け、 あなたがたがその後に従うように模範を残された。 キリストは罪を犯したこともなく、いつわりを口にされたこともない。 ののしられても、ののしり返すことなく、 苦しめられても、おどすことなく、 正しく裁かれるかたに、ご自分を委ねられた。 わたしたちが罪に死んで正しく生きるため、 キリストは十字架の上で、わたしたちの罪を身に負われた。 その傷によって、あなたがたもいやされた。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。




「アレオパゴスの祈り 年間スケジュールと祈りの紹介」に戻る

▲ページのトップへ