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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2013年11月2日


ホトトギス



主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神。
あなたは人を塵に返し
「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
千年といえども御目には
昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
あなたは眠りの中に人を漂わせ
朝が来れば、人は草のように移ろいます。
朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい
夕べにはしおれ、枯れて行きます。                       詩編90.1-6

カトリック教会では、11月を「死者の月」として、亡くなった方々を思い出し、神さまの憐れみによって、永遠のやすらぎを得ることができるよう祈りをささげる月としています。特に今日、11月2日は、「死者の日」として記念し、亡くなったすべての人が、イエス・キリストの復活のいのちにあずかることができるように、特別なミサがささげられました。

わたしたちは、日常生活の中でさまざまな人の死に出会います。家族や親族、友人たちなどの身近な人の死。新聞やテレビなどメディアで報道されて知る人々の死。世界のいたるところで起こっている災害や不慮の事故で亡くなっていく人々の死。死は、いつどこで、どのような形でわたしたちを訪れてくるのか、予想することはできません。わたしたちは、「死」についてどのように考えているでしょうか。怖いもの、考えたくないものとして、どこかに押しやって生きているでしょうか。いつか必ずわたしの前に、確実に訪れる死について神さまの前で考えてみる勇気を願いましょう。

今日は、亡くなったすべての人々のために祈りをささげましょう。
・この世で生を全うし、すでに神のもとに召されたわたしたちの家族、親族、友人、恩人のために。
・また、不慮の事故や災害、戦争、自死、死刑などさまざまな要因で亡くなられたすべての人々のために。

お手元の紙に、亡くなられた家族、友人、恩人など特にお祈りしたい方のお名前をお書きください。何人でも結構です。

祭壇にローソクをささげましょう。お名前を書いた紙は、祭壇のるカゴにお入れください。

祈願
いつくしみ深い父よ、
今夜ここに集まったわたしたち一人ひとりの祈りを受け入れてください。あなたのもとに召された人々が、すべての罪から清められ、永遠の復活のいのちにあずかることができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

さて、今日は、最初に、芥川龍之介の短編、「蜘蛛の糸」を紹介いたします。この物語から、死者の日のメッセージをくみとり、ご一緒に考えてみたいと思います。

ある日、お釈迦様が極楽の池のほとりを散歩していました。蓮の花がいっぱい咲いています。ふと蓮の花を見ていると、ある蓮と蓮の間に穴が空いていることに気がつきます。その穴を覗き込んでみると、深い深い、薄暗い底無しの穴の下の方で真っ赤なものがうごめいています。血の池で罪人が苦しみもがいているのです。さて、ずっと下を覗き込んでいたお釈迦様は、ひとりの見覚えのある男を見つけます。名前はカンダタです。彼は生前、人殺し、放火、泥棒・・と、生きている間は悪いことばかりしていた極悪人でした。しかし、お釈迦様はカンダタが生前、たった一つ良いことをしたことを覚えていました。それは、カンダタが、ある日森の中を歩いていると、一匹の蜘蛛を発見し、思わず踏みつけようとしましたが、急にかわいそうになり踏まずに助けたのです。お釈迦様は、その報いに、できることなら、カンダタを地獄から助け出してやりたいと思いました。

そこで、蓮の花の間から、蜘蛛の銀の糸を垂らします。下の方で苦しみもだえていたカンダタは、上から降りて来る蜘蛛の糸を見つけます。誰かが自分を助けようとしてくれているんだと大喜びして、糸に一生懸命しがみつきます。そして、その糸に昇り始めます。途中まで昇って来て、一休みをしていると、下からざわめきが聞ます。見ると自分の下には、同じように助かりたくて、たくさんの罪人が蜘蛛の糸に捕まって昇ってくるではありませんか。自分ひとりでさえ切れてしまいそうなのに、これだけの人数が昇ってきたらたまりません。 そこで、カンダタは下に向かって 「 こら、この蜘蛛の糸はオレさまのものだ。お前たちは一体誰に聞いて、昇って来た。下りろ。下りろ 」と叫びました。

そう言った途端に、カンダタがしがみついていた糸が手のすぐ上からプツンと切れてしまいました。そして、下の方の罪人ともどもカンダタは再び闇の中に落ちていってしまいました。それを見ていたお釈迦様は、悲しそうな面持ちで、再び池の周りを歩き始めました。

一見、子ども向けと思われるようなこのお話は、人生の、そして信仰についてのとても深いことを語っています。カンダタが、「 この蜘蛛の糸はオレさまのものだ 」と叫んだときに、糸は切れ、再び底無し沼に落ちていきました。この糸は、本当にカンダタのものだったのでしょうか?

カンダタに「 これはわたしのもの 」と言う権利があったのでしょうか。いいえ、それはカンダタにとり、糸は気がついたら与えられていたものでした。仏教的に言うなら、仏の慈悲のお陰と言えるでしょう。聖書的に言うなら、神の恵みのお陰です。わたしたちも普段、自分を振り返ってみたとき、本当は神さまから、ただで戴いたものに関わらず、つい、自分のものと主張していることがあります。

また、自分の努力のみに目を向け、自分のしたことを自慢したくなります。人生は、根本的にはすべて、神さまからの無償の戴きもの、授かりものです。確かに、わたしたちも努力した部分があるでしょう。しかし、それは実質的には小さな部分です。根本的には戴いたものです。 ただで与えられたものですから、その意味で、わたしたちの人生は感謝しなければならないでしょう。にもかかわらず、わたしたちは日常、神さまを忘れてしまいます。

この物語の中で、一本の蜘蛛の糸とは、どんな意味を持ちっているのでしょうか。一本の蜘蛛の糸とは、神さまとつながっている価値ある神さまへの信仰、しかも気がついたらただで与えられていたその信仰と言えるのではないでしょうか。カンダタは、信仰を自分だけのものにして、自分だけが救われたいと思い、自分の方から切ってしまいました。信仰は、他の人との連帯するものであることに気がつかなかったのです。信仰による救いは、決して自分だけは完成されません。他の人々と分かち合い、与え合うことによって救いが実現するということをこの物語は、教えているように思います。

さて、わたしが、カンダタと同じ立場にいるとすれば、どのような行動を取るでしょうか。しばらく祈りましょう。

第1の神秘


旧約聖書のシラの書に次のようなことばがあります。

人間とは何者か、その存在の意義は何か?
その行う善、その行う悪とは何か?
人の寿命は、長くて100年。
大海の中のひとしずく、砂の中の一粒のように、
永遠というときに比べれば、この寿命はわずかなものにすぎない。
このゆえに、主は、人々に対して忍耐し、
憐れみを彼らに注がれる。
主は、人間のみじめな末路を見、知っておられる。
それゆえ、豊かに贖いを与えてくださる。
人間の慈しみは、隣人にしか及ばないが、
主の慈しみは、すべての人に及ぶ。                        シラの書18.8-13

また、旧約聖書の詩編では、わたしたち人間がいかにもろく、はかないものかを歌った詩があります。


「主は、わたしたちを
どのように造るべきかを知っておられた。
わたしたちが塵にすぎないことを
御心に留めておられる。
人の生涯は、草のよう。野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消え失せ
生えていたところを知る者もなくなる。                          詩編103.14-16

新約聖書のヨハネ福音書では、「永遠のいのち」ということばが多く使われています。そして、イエスは死のかなたにあるいのちについてはっきりと語っています。この「永遠のいのち」はキリスト教の教えの中心にあるものです。イエスへの信仰に生きる人は皆、永遠に生きるのです。

ヨハネ福音書からイエスのことばを聞きましょう。

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
                            ヨハネ6.35-40、47-5

(沈黙)

人は二つのいのちを生きるように、この世に生を受けてきたとも言えるでしょう。『あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んだ』と言われる肉のいのちと、朽ちないもっと大きないのち、つまり新たな神のいのちに至るため、自分に死んで神さまに生かしていただくいのちです。死の向こうに何があるのか正確に知っている人は誰もいません。だだ、信仰によって知る以外に方法はないのです。

わたしたちに約束されている永遠のいのちは、復活したイエスのいのちにあずかることです。永遠のいのちは、単に死後のことではなく、イエスに従う生き方の中にあり、わたしたちのこの世での生活は、永遠のいのちの始まりでもあります。

信仰の世界は、今の現実よりも未来の現実に重きをおきます。今は、プロセスであり、決定的なときは、未来にあります。わたしたちの運命が決まるのは、未来のときです。終わりのときがいつくるのかは、わたしたちにはわかりませんが、いつか神の前で人生の決算をしなければならないということをしっかりと自覚しておきたいものです。

パウロ家族の祈り:死者のためにする祈り
  イエス・キリスト、栄光の王である主、
  聖母マリアとすべての聖人の取り次ぎによって、
  神を信じて亡くなった人びとを、復活の栄光にあずからせてください。
  大天使ミカエルの取り次ぎによって、
  アブラハムとその子孫に約束された聖なる光に、かれらを導いてください。
  主よ、かれらのためにささげる賛美の祈りを受け納め、
  かれらを永遠の喜びに迎え入れてください。
  主よ、永遠の安息をかれらに与え、不滅の光でかれらを照らしてください。
  かれらが安らかにいこいますように。アーメン。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。




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