home>祈り>アレオパゴスの祈り>2018年 4月

アレオパゴスの祈り

バックナンバー

アレオパゴスの祈り 2018年 4月 7日


 サツキ


先週の聖土曜日3月31日、そして復活の主日である4月1日には、全世界で多くの方が洗礼を受けられたことでしょう。この日は、主がご受難と復活によって、信じる者に永遠の命を与えられたことを特に記念するために、洗礼式を行うのがふさわしいとされています。今日は、洗礼を受けられた方々のために恵みを願って、祈りましょう。

わたしたち一人ひとりが心に抱いている意向、祈りを必要としている人びとを神様の御手にゆだねて、しばらく思い起こしましょう。

(沈黙)

お祈りしたい意向を心の中にたずさえて、ローソクをささげましょう。ローソクを受け取り、祭壇にささげ、席にお戻りください

『祈りの歌を風にのせ』p.41「主よ わたしは今ここに」3回くり返す

明日、ミサの中で朗読されるヨハネによる福音のことばを聞きましょう。
  <ヨハネ20.19~31>

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」。

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

イエスの十字架上の死は、弟子たちにとってすべてが終わってしまったような体験でした。人生を賭けて従おうとした先生が、あんな形で死んでしまうということは考えられないことでした。「自分たちのこれからの人生はどうなるのだろう……」。恐れと不安のうちにある弟子たちの真ん中に、イエスはお現われになります。「あなたがたに平和があるように」。彼らの悲しみ、不安、恐れは、大きな喜びへと変えられました。そんな中、その場にいなかったトマスは、ふてくされたように断言します。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。しかし、イエスは、トマスにもご自分を現されます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。イエスが御父のもとに昇天なさってから、この地上で生きる人びとはイエスを肉眼で見ることはできなくなりました。しかし、イエスの死と復活を信じる人に、御父は永遠の命を与えてくださいます。教会は、その神の子としての永遠の命を「洗礼の秘跡」をとおして、人びとに授けています。

わたしたちは「洗礼」を受けることで、生まれながらに持っている「罪を犯す可能性がある」という傾きである「原罪」と、それまでに犯してきたすべての罪がゆるされます。しかし、罪を犯す傾きは完全に消えるわけではなく、残ります。洗礼を受けてから犯した罪は、「ゆるしの秘跡」によってゆるしていただくことができます。「洗礼」によって、イエスの十字架上の死にあずかることで、罪に死に、イエスの復活によって、わたしたちは永遠の命をいただくのです。イエスの姿は、わたしたちの目には見えませんが、イエスはいつも共にいて、わたしたちを導いてくださいます。そのことを思いめぐらしながら、しばらく沈黙のうちに、祈りましょう。

しばらく沈黙のうちに、祈りましょう。

(沈黙)

『パウロ家族の祈り』p.319~320 を、ご一緒に唱えましょう。
   限りない、いつくしみの神、あなたは賛美されますように。
   あなたは人に自然のいのちのほかに、超自然のいのちを注がれました。
   あなたは人をご自分の子とし、ご自分の幸いに招き、
   いつくしみの愛で満たしてくださいました。
   あなたの偉大な恵みの尊さを知ることができるよう、
   わたしを照らしてください。

   天のいと高きところには神に栄光、善意の人びとに平和。
   道・真理・生命である師イエス、わたしたちをあわれんでください。
   使徒の女王聖マリア、わたしたちのために祈ってください。

 聖堂
「アレオパゴスの祈り」でささげられたローソク


札幌市にあるカトリック円山教会のホームページには、信徒の方たちが洗礼の思い出を分かち合っているコーナーがあります。その一部をまとめたものをご紹介したいと思います。

30代・女性 わたしは、2010年のご復活に洗礼を受けました。カトリックのことを知ったきっかけは、小学校4年生まで函館に住んでいたので、トラピスチヌ修道院が身近だったことです。そのときは、バターや飴などを買いに行き、シスターの生活に憧れるという、ミーハーな気持ちであったように思います。ただ、特にカトリックを意識したのはマザー・テレサの活動を知ってからです。

教会は、「神様がよしとすることを、まっすぐに守りながら生活をしなければならないところ」という堅いイメージを持っていましたが、ずっと教会に行きたい、洗礼を受けたいと思っていました。しかし、きっかけがつかめないまま過ごしていました。そんなとき、何気なく、「カトリックの勉強がしたい」と話した方が、たまたまカトリック信者で、その方がわたしに公教要理の本を貸してくださいました。その方の存在があって、円山教会に通い始めました。今でも、なぜ、あのタイミングであの方に自分の思いを打ち明けたのか不思議ですが、わたしにとっては感謝しても感謝しきれない恩人ですし、神様の存在を実感した出来事です。

実際に教会に通い始めて、「信仰は堅いものではない」ということが分かりました。ずっと洗礼を受けたいと思っていたので、具体的なきっかけはことばで表現できないのですが、ただ、そうなることが本当の自分であるような感覚がありました。

初めての方にとっては、教会は近寄りがたいという感じがして、教会に行くきっかけがつかないと思います。しかし、迷っている方は、まず勇気を出して来てほしいと思います。決して堅くて生真面目な人の集団ではなく、いろいろな人がいます。そのために楽しいこと、ちょっぴりつらいこともありますが、神様を信頼する気持ちはみんな同じです。時として、神様への信頼が揺らぐこともありますが、共同体を通じて得ることもたくさんあります。祈り合える人がいることの喜びを分かち合えるとうれしいです。

50代・女性
わたしは、生まれて3日目に自宅で洗礼を受けました。母が信者で、父は仏教徒。田舎ばかりで転勤が多く、とぎれとぎれに土曜学校に通いました。中学生のときに初聖体を受け、大学はミッションスクール。結婚相手は未信者で、転勤も毎年のようにあり、教会から離れてしまいました。

ふり返ってみると、今まで、あちこちの教会へ、大人の中に交じって過ごした記憶が大きいです。教会は、「いつでもすべてを受け入れてくれるところ」というイメージと、昔の厳しいイメージ、両方を持っていました。また、たとえクリスチャンでも、人としての限界があるということが、子ども時代は嫌だと思っていました。

教会から離れてしまった時期がありましたが、神様は教会へ行かないときもわたしのそばにいらっしゃいました。ただ、生活の中で様々な困難がありました。その中で、いつも招かれていることを感じていました。親しい神父様方や友人が、いつも辛抱強く導いてくださり、円山教会に通うようになりました。時が満ちたという感じです。

円山教会では、他の教会のような建物としての美しさは感じませんでした。しかし、ごミサの様子がとても温かく感じました。 特に子どもたちの様子が、のびのびとしていました。 いろいろな方がいて、どの子もそのままに受け入れられ、失敗を温かく見守る雰囲気が何よりもうれしく思いました。

もしわたしと同じように、信者の方でさまよっておられる方がいらっしゃいましたら、どうぞごミサにいらしてみてください。わたしたちの教会は、ゆるく、温かい関係が持てる共同体です。何をするにも、「そのとき、できる人が、できることを……」という心がいつもあると思います。そのままのあなたで、大丈夫です。

40代・男性
わたしは、2010年4月の復活祭のときに、円山教会で受洗しました。カトリックのことは、学校教育や聖書で以前から知識として知っていました。具体的には、札幌に来る前、東京に住んでいたときに、自宅の近所に教会があり、通りがかりに眺めることで知りました。
教会に通い始めたきっかけは、東京に住んでいたころ、仕事で帰りが遅くなった深夜にも、近所の教会の前を通ると、通用門が開かれ、灯りがともされているのを見ていたことです。困っている人、悩みのある人に開かれている場所だと感じ、自分は困っていませんでしたが、どんな人たちがいる場所なのか、気になっていました。

その教会で初めてミサに参加したとき、親切に案内してもらいましたが、事前に予想していたような洗礼の勧誘など押しつけがましいことは一切なく、ある意味、肩すかしでした。カトリック教会は、教義に基づく厳格さを求められる場所だろうと思っていました。しかし、現実に見た日曜日の教会は、ミサ後のお茶会の和やかな雰囲気と敷居の低さが感じられ、ギャップがありました。普段、通りがかりに見ていた和やかな雰囲気、そのままでした。

洗礼を受けようと思ったきっかけは、教会に通い始めて2年近く経ったころ、入門講座を受けた上で、自分から志願すれば、受洗できることをふとしたきっかけで知ったことです。入門講座で得た知識で、教えが常識的なものであると感じ、「その方向に進んでみよう」、と思いました。逆に言えば、講座の受講や受洗を強制的には勧められないものなのだと感じました。

カトリック教会は、正直言って、人により、合う・合わないがあるかも知れません。でも、自分自身の判断が尊重され、和やかな雰囲気があるという点は、教会共通だと思います。教会に行こうか迷っている方、悩みがある方、困っている方、寂しい方は、試しにでも、訪問してみてほしいです。あなたに向けて、教会の門はいつも開かれています。

神様との出会い、教会に通うようになったきっかけは、実に人それぞれです。わたしの神様との出会いは、どうだったでしょうか。しばらく沈黙のうちに、祈りましょう。

今年の復活祭に洗礼を受けられた方々と喜びをともにしながら、「ニケア・コンスタンチノープル信条」をご一緒に唱えましょう。
   わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、
   見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
   わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
   主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、
   神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
   造られることなく生まれ、父と一体。
   すべては主によって造られました。
   主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、
   聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。
   ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
   苦しみを受け、葬られ、
   聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。
   主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
   その国は終わることがありません。
   わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
   聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
   また預言者をとおして語られました。
   わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
   罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
   死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。アーメン。

わたしたちの目には見えなくても、復活なさった主がいつも共にいてくださることを、信じることができますようにと願って歌いましょう。

『祈りの歌を風にのせ』p.47「復活された主に出会い」① ② Φ

祈りましょう。
   父である神よ、
   あなたは御子キリストの復活によって世界に喜びを与え、
   また洗礼の秘跡をとおして、教会に新しい子どもを加え、
   神の民を成長させてくださいます。
   わたしたちが神の子とされたことを喜び、
   感謝のうちに日々歩んで行くことができますように。
   わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。



「アレオパゴスの祈り 年間スケジュールと祈りの紹介」に戻る

▲ページのトップへ