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教会カレンダー

年間第6土曜日

第1朗読 ヘブライ人への手紙 11章1~7節

福音朗読 マルコによる福音書 9章2~13節

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第1朗読 ヘブライ人への手紙 11章1~7節

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

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福音朗読 マルコによる福音書 9章2~13節

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

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年間第3土曜日にも11章1の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」を読みました。

今週創世記を読みながら、「カインとアベル」、「ノアの時代の洪水」について読んできましたが、今日の朗読にも「カインとアベル」(4節)、「ノア」(7節)が出てきます。5節にはエノクが登場します。

彼らを通しながら、神の約束が必ず実現することを信じること、そのことは希望に通じることと述べられています。

イエスを信じる人も必ず救いに入ることができるという信仰と希望に励まされているのです。救いへと導かれる神の思いを、祈る1日としましょう。

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昨日からの朗読を続いて読んでいきます。

イエスは、「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られ」、彼らの目の前でイエスの姿が変わります。

旧約の代表であるエリヤとモーセが共に現れ、イエスと語り合っているのを見たペトロは、口を挟んで言います。それに答えるようにして、雲が彼らを覆い「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声を聞きます。その後イエスだけが彼らと共にいます。

雲は神の現存の象徴です。イエスに聞くことこそ神のみ心です。イエスだけ、つまり受難へと歩むイエスです。

山を下りたイエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられ」、日常の生活に戻ります。そこで待っているのは、イエスの受難です。

イエスの弟子たちの言葉は、それは彼らがどういうことかと論じることになります。弟子たちが理解するにはまだまだ時間が必要なのです。

「これはわたしの愛する子。これに聞け」との言葉に留まりながら祈る日といたしましょう。

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