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教会カレンダー

A年 年間第14主日

第1朗読 ゼカリヤ書 9章9~10節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章9、11~13節

福音朗読 マタイによる福音書 11章25~30節

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祭壇下にある“くびき”

今日のテーマは、高ぶることのない、謙遜なメシアです。

預言者が伝えた 王としての救い主キリストは、真の平和をもたらす方です。軍馬の力ではなく、柔和なへりくだる心である平和。キリストがもたらしてくださるこの平和は、自分の力を誇らず、神の霊に生きるときに体験できるものです。

私たちがキリストと共に日々を生きるときに与えられる安らぎは、聖霊の力によるものであり、キリスト者の真の力です。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい」とのイエスの招きは、この言葉を聞く人にどのように響くのでしょうか。この招きをされる方に私たちの重荷、気がかり、心配……などを注ぎ出す祈りをしてはいかがでしょうか。そのとき自らのうちに体験する平和、安らぎ、広がる空間……こそ、聖霊が与えてくださるたまものでしょう。パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父は、このみ言葉に触れた時に、こう語ってくださる方を告げ知らせねば、と実感したのでした。

私たちに、このみ言葉、そして平和の主の訪れは、どう響いてくるのでしょうか。

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第1朗読では、捕囚(ほしゅう)後、預言者が覚めた目をもって、謙遜な王の登場を告げるゼカリヤの一節が読まれます。

ゼカリヤ書は、明らかに時代の違う別々のまとまりということで、第1、第2に分かれています。

王家の系統のことが語られる第1ゼカリヤ書とは テーマも異なり、ゼカリヤ書9~14章は、第2ゼカリヤ書と呼ばれ、謙遜な王が登場します。

貧しい人に救いをもたらすのは、貧しく柔和で苦しむメシアであるとイザヤ書の「しもべの歌」で言われていますが、第2ゼカリヤ書は、第2イザヤの影響を受けていると考えられています。

つまり、この世界に平和をもたらすのは、軍馬の力ではなく、柔和なへりくだる心であることを伝えているのです。

この預言は、今日の福音やエルサレム入城を伝える福音の記事が示すように、イエスにおいて成就します。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ」との神の呼びかけではじまる今日の朗読は、なんと力強く響くのでしょう。神の歴史への介入の言葉を味わう日といたしましょう。

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第2朗読は、ローマの信徒への手紙が読まれます。

私たち一人ひとりには、神のたまものである「神の霊」が内在しておられると、聖パウロは言います。

この霊に生かされることが、信仰に生きること、キリストの招きに答え、真の平和にあずかることです。神の霊の力によってこそ、今日伝えられる真の平和、キリスト者の真の安らぎが与えられるのです。

「霊に従って生きる」、神に由来する力に頼って生きる、この姿はキリストによって示されています。復活されたキリストは、神からの力によって生きる姿を、身をもって示し、「わたしに学びなさい」と招かれます。この方に私たちの身を開いていきましょう。

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今日の福音で、イエスは神のみ国が「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われます。

常識的に考えれば、「知恵ある者や賢い者」の方がいいにきまっています。イエスが言われる「知恵ある者」、「賢い者」とはどのような人なのでしょうか。「幼子のような者」とはどんな人なのでしょうか。

「知恵ある者や賢い者」とは、世間的な賢さ、権力、財力に恵まれていながら、それゆえに高慢になって、神のみ声に心を開いて耳を傾けようとしない人、反対に「幼子のような者」とは、世間的な賢さ、権力、財力にたとえ恵まれていなくても、神の前に単純、素直、謙虚に生きる人をいうようです。

イエスは、ご自分が信仰のない当時の人びとからは認められなくても、神に対して素直な心の人々からは歓迎されるのをみて、知恵の正しさについて、意味深い結論を導き出されています。このイエスの知恵に関する根本的な考えは、イエスご自身が、旧約の神の知恵にご自分をたとえて話しておられる箇所を想起すれば、明らかになります。

それは、今日の福音や、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」とのヨハネ福音書からも分かります。

また、キリストは「神の知恵」(Iコリ 1.24 Iコリ 1.30 参照)と呼ばれています。それは、彼が単に人間に知恵を伝達するからということでなく、彼自身が、神の知恵そのものだからです。

今日の福音で、イエスはご自分が「柔和で謙遜な者」であると言われ、ご自分の学舎に来るようにと招きます。彼は、父なる神は 神のみ国を、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われます。

聖書全体の啓示は、小さい者に対してなされたと言っても過言でないでしょう。

イエスは、また「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われます。

一体だれが、このような招きをすることができるでしょうか。

だれでも人は、他者の労苦、重荷に対してまったく無力であり、私たちには、支える力も解決する力もなく、できることはそばにいて祈ることだけで、それさえ難しく思える時がしばしばです。

「だれでもわたしのもとに来なさい」とすべての人を招かれる方は、大変な方なのです。この方こそ私たちの信仰の原点なのです。この方に近づき、光、力をいただいて教会は今もあるのです。

私たちの中に、イエスのこの招きを迎え入れる一日としたいものです。

祈り

聖なる父よ、
  あなたは倒れていた世界を、
  キリストの死によって新しいいのちにたち直らされてくださいました。
  信じる者を罪の束縛から解放し、
  終わりのない喜びにあずからせてください。
集会祈願より

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第1朗読 ゼカリヤ書 9章9~10節

(主は言われる)
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。

わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章9、11~13節

 (皆さん、)神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、 あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、 あなたがたの内に宿っているなら、 キリストを死者の中から復活させた方は、 あなたがたの内に宿っているその霊によって、 あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、 それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。 しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

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福音朗読 マタイによる福音書 11章25~30節

 そのとき、イエスはこう言われた。 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、 幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。 父のほかに子を知る者はなく、 子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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