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教会カレンダー

A年 四旬節第1主日

第1朗読 創世記 2章7~9節、3章1~7節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章12~19節

福音朗読 マタイによる福音書 4章1~11節

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四旬節の最初の主日です。これから、私たちの信仰の中心である キリストの死と復活の記念にあずかる準備をしていきます。

今日の福音で読まれる主イエスの40日間の断食と 悪魔の誘(いざ)いに対するキリストの姿は、四旬節のテーマを語っています。

四旬節の間、教会は罪のあがないの神秘を黙想するように招きます。

初代教会において、復活徹夜祭に洗礼を受ける人は、毎日教会に集まり、講話を聞き、悪霊追放の式にあずかり、断食、節制に努めていました。この習慣が後には信徒たちにも広がり、四旬節の40日間節制に努めるようになりました。

第2バチカン公会議後の典礼刷新において、四旬節の聖書朗読と典礼は洗礼志願者のための教育に向けられるようになりました。

非常に豊かな典礼のときなので、毎日のみ言葉を聞き、それに生かされながら過ごすときに、まことにこの時期がキリストの過ぎ越しの神秘にあずかる信仰を確認する日々となるでしょう。

「教会は過越の神秘から生まれました」との教皇の言葉から、「教会のはじまった当時の出来事を思い起こし」ながら、また、神への従順を貫いたイエス・キリストを観想しながらこの日々を生きていきましょう。

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旧約の救いの歴史を回顧するにあたり、今日の第1朗読では、そのはじまりである創造についての箇所が読まれます。創造について語る聖書の箇所はいくつかありますが、今日は、ヤーヴェ資料による世界と人間の創造、最初の人間の罪の記事です。

誘惑とは、あり得る悪と出会うことです。もっともらしいものが誘惑です。アダムとイブの罪は、神の諭しに造反することでした。

人は、神のイニシアティブでいのちが与えられ、神のみ心に沿って生きる者です。この程度なら……と自他をだますことは、私たち一人ひとりの中にあるものでしょう。この動きに気づくことが大切です。

神のみ心に反するとき、人の中にいろいろの悲惨さが入ってきます。これが死なのでしょう。

いずれ、この誘惑に徹底的にうち勝つ方が来られるのです。

物語の中に、人の心に疑念が頭をもたげ、人を誘う誘惑の影がしのびよってくる動きがよく描写されてきます。あなたはこのような時に、どうしますか。
 日々の糾明をしていくことにより、自分の中におこってくる心の動きに敏感に気づいていけるようになります。
 毎日15分でも、日々の糾明のための時間をとってみられてはいかがですか。

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キリストの救いが、すべての人に及ぶというパウロの書簡を、四旬節がはじまる今日朗読するには、ふさわしい箇所といえるでしょう。

一人からはじまって、死、悲惨さが世界に入ってきたのと同様に、一人のキリストによる恵みのたまもの、ゆるし、義、いのちがすべてに及ぶのです。

罪や救いは個人的なことと考えがちですが、パウロは人間全体におよぶ共同体の出来事、社会的な出来事であると言うのです。

パウロの、この洞察に目をとめてみるのはいいかもしれません。

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四旬節の第1主日には、主の試みの記事が読まれます。今年はA年ですので、マタイによる福音書が読まれます。

イエスは3つの点の誘惑を受けられます。
  (1)「石がパンになるように」命じること
  (2)「神の子なら、飛び降りたらどうだ」、高い所から飛び降りること
  (3)「ひれ伏してわたし(サタン)を拝む」こと

これらは人の心を誘う肉の欲、富の欲、名誉の欲を代表するもので、だれの心にもあり得るものです。

イエスの場合、3つともすべて神のみ言葉から引き離そうとする、つまり、神との絆(きずな)、コミュニケーションを分断させる誘惑でもあったのです。

このような試み、誘惑は個人的なものばかりでありません。イスラエルは宗教的、歴史的なドラマを通して体験します。これに対して最終的な解決が与えられるのは、イエス・キリストにおいてです。

さて、イエスのように私たちに荒野と誘惑が訪れたら、私たちはどう反応するのでしょうか。

神に生きるのか、背を向けるのか。

誘惑は私の外側にあるのではなく、内からくるものです。そして、そこから逃げられません。イエスの道を歩む者が、誘惑とどう向き合っていったらいいのかについて、イエスは教えてくださっています。

 40日間の体験 について

祈り

いのちの源である神よ、
  主イエスは、四十日の荒れ野の試みをとおして、
  悪への誘惑に打ち勝つ道を示してくださいました。
  四旬節の歩みを始めるわたしたちを導き、
  日々あなたのことばによって生きる者としてください。
  集会祈願より

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第1朗読 創世記 2章7~9節、3章1~7節

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

主なる神は、東の方のエデンに園を設け、
自ら形づくった人をそこに置かれた。

主なる神は、見るからに好ましく、
食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、
また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。

でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、
触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。

それを食べると、目が開け、
神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、
目を引き付け、賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章12~19節

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、
罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。
すべての人が罪を犯したからです。

律法が与えられる前にも罪は世にあったが、
律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。

しかし、アダムからモーセまでの間にも、
アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。
実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。
一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、
なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、
多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。
裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、
恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、
無罪の判決が下されるからです。

一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

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マタイによる福音書 4章1~11節

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、
“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、

言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、
世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、

「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

すると、イエスは言われた。
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」

そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

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