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教会カレンダー

B年 主の洗礼

第1朗読 イザヤ書 55章1~11節

または ヨハネの手紙一 5章1~9節

福音朗読 マルコによる福音書 1章7~11節

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クリスマスを中心にした待降節、降誕節のしめくくりは、今日の“主の洗礼”の祭日です。主の洗礼を祝った後、典礼は年間に入ります。

初代教会の人は、主イエスの洗礼の中に、キリスト者の洗礼の原型をみていました。さらに主の受洗によって、「神の霊がくだり」、主が神のメッセージを伝える預言者として立てられたという重大な出来事をもみていました。主の洗礼は、イエスが福音宣教という使命を果たしていくための準備でもあります。

そのため、福音記者はいずれも主の洗礼を伝えています。主イエスの場合、この洗礼の出来事は、終末的な出来事として描写されます。

教皇ヨハネ・パウロ2世は、「光の神秘」をロザリオの神秘に新たに加えられましたが、その第1の黙想は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたことです。この神秘を黙想しながら、一人ひとりの洗礼の恵みを神に感謝し、聖霊に導かれて、神の子として生きることができるよう聖母の取り次ぎを願うことが勧められています。

キリストの宣教の原点である洗礼、私たちの宣教の原点である洗礼の出来事を、聖母とともに祈り、黙想することをお勧めいたします。

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第1朗読は、ABC年共通の朗読を読むこともできます。それは、第2イザヤ書に属するイザヤ書42章1~4、6~7です。第2イザヤ書で忘れてならないのは、バビロンからの解放のおとずれと主のしもべです。この二つは第2イザヤ書の1部、2部として対応しているテーマです。

B年では、この第2イザヤ書の結びが読まれます。この結びの章は、イザヤ書の後半において重要な章で、「真に福音的な章」と呼ばれているほどです。
 この結びは、続く第3イザヤの中心的なメッセージをもなすものです。

神に捨てられ、忘れ去られていると落胆している民に、預言者は、「ダビデに約束された真実の慈しみ」ゆえに、神は「とこしえの契約」を結ばれるというメッセージを送り、民を励ましています。

神から出る言葉はむなしくはなりません。神の言葉は、必ず神の望みを果たし、神が与えた使命を必ず果たすのです。

そこで今日の言葉は、バビロン捕囚にある民が、主からの救いの呼びかけを受けているのです。

「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい」との招きは、今日の福音へと私たちを招くのです。

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今年は月曜日にあたり、祝日なので、選択としてヨハネの手紙を読むことができます。ヨハネの手紙では、ヨハネ福音書と共通する用語や概念が用いられています。ヨハネ福音書は、教会外との対立からおきた問題に答えることが目的ですが、ヨハネの手紙では、教会内部の問題を取り扱っています。

今日の手紙では、イエスをメシアと信じる人のあり方が問題にされています。

イエスがメシアであると信じる人は、神から生まれた者であり、イエスが神の子と信じる人は、世に打ち勝つ者であると言います。

使徒たちがイエス・キリストの公生活を告げ知らせる時に、十字架の出来事と同時に、よくヨルダン川の洗礼の出来事を語ります。

今日の手紙でも、「水と血」によってこれらの二つの出来事を示しています。また、キリストに満ちていた霊、聖霊にも触れています。

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福音史家たちは、いずれも主の洗礼について伝えていますが、今年はマルコ福音書が読まれます。

このように4福音史家すべてが伝える出来事は、この出来事が非常に意味があること、重大な出来事であるということです。

このような機会に、読み比べてみると、いろいろの発見があるでしょう。お勧めします。

今日の朗読箇所が含まれるマルコ1~15節は、マルコ福音書全体の序となっています。洗礼者ヨハネの悔い改めの説教が述べられ、人々を洗礼に導き、自分より後に優れた方がくると自分は先駆者と宣言し、主の洗礼を述べる、今日の福音箇所が続いています。

主の洗礼の出来事は、
  (1)イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた事実
  (2)イエスの上に霊が降ったこと
  (3)父からの宣言
として描かれています。

イエスの洗礼の出来事は、時代の主人公が洗礼者ヨハネからイエスへと移ったことを表しています。

ですから、洗礼者ヨハネの洗礼は水による洗礼ですが、来るべき方の洗礼は聖霊によるものです。

神からの霊を受けたイエスは、民を導きながら新しい時代を歩みはじめます。

マルコが表現している、「天からの声」、「天が裂ける」などは、終末思想を示す言語です。

それにしてもなぜ、主イエスは洗礼を受けられたのでしょうか。
 イエスの洗礼には、どのような意味があったのでしょうか。そして、私の洗礼は?

神の恵みの応答としての洗礼、「キリスト=メシア=救い主」としての使命への出発としての洗礼と考えながら、自分の人生のひとつの節目である洗礼について、今日はゆっくりと考察、味わう日としてはいかがですか。

祈り

全能永遠の神よ、
  ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスにあなたは聖霊を注ぎ、
  愛する子であることを示してくださいました。
  洗礼によって新たに生まれ、あなたの子どもとされたわたしたちが、
  いつもみ心に従うことができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 イザヤ書 55章1~11節

渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。

なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
飢えを満たさぬもののために労するのか。
わたしに聞き従えば
良いものを食べることができる。
あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。
聞き従って、魂に命を得よ。
わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。
ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

見よ
かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし
諸国民の指導者、統治者とした。

今、あなたは知らなかった国に呼びかける。
あなたを知らなかった国は
あなたのもとに馳せ参じるであろう。
あなたの神である主
あなたに輝きを与えられる
イスラエルの聖なる神のゆえに。

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。

神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。

天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。

雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

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または ヨハネの手紙一 5章1~9節

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。
そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。

このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、
その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。

神を愛するとは、神の掟を守ることです。
神の掟は難しいものではありません。

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。
世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

だれが世に打ち勝つか。
イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。
水だけではなく、水と血とによって来られたのです。
そして、“霊”はこのことを証しする方です。
“霊”は真理だからです。

証しするのは三者で、
“霊”と水と血です。この三者は一致しています。

わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。
神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。

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福音朗読 マルコによる福音書 1章7~11節

彼はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。
わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

水の中から上がるとすぐ、
天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

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