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教会カレンダー

B年 キリストの聖体

第1朗読 出エジプト記 24章3~8節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章11~15節

福音朗読 マルコによる福音書 14章12~16、22~26節

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「キリストの聖体」の祭日は、本来、「三位一体の主日」の週の木曜日に祝われますが、日本のようにキリスト者が少ない国では、平日にミサに参加するのが難しいため、木曜日ではなく三位一体の主日直後の日曜日に祝うように教会は配慮しています。

「聖体の秘跡」に対して、教会はいつも最大の尊敬をはらってきました。主の生涯の出来事、誕生からご昇天までを祝ってきた教会は、主の形見ともいうべき人類に対する神からの恵み、愛の結晶である「聖体の祭日」を今日あらためて祝います。

「私の記念としてこれを行いなさい」との主の命令によって、「主の晩餐(ばんさん)」の記念は初代教会から大切にされてきました。キリストの死という出来事が神に覚えられ、新たにされ、終末の成就が宣言されます。

今日祝う「キリストの聖体」の祝日が定められたのは、聖体に対する信心が高まった13世紀のことです。教皇ウルバノ4世が教令を発布した1264年から、この祭日はローマ教会全体で祝われるようになりました。

初代教会から「パンを裂く」集いは、信徒たちにとって、キリストに出会い、交わり、生きる糧をいただく最も大切な神秘として非常に大事にされてきました。

今日、教会は、復活祭の季節をとおして記念したキリストの過ぎ越しの神秘をあらためて受け止めます。キリストの聖体の祭日は、教会が聖体と共に歩み、神にささげられていくという姿勢を受け止めなおす日です。

キリストが偉大な賜物、聖体を与えてくださったことに、感謝と賛美をささげる一日としましょう。

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第1朗読では、最後の晩餐で聖体の秘跡を定める言葉の源となった「出エジプト記」が読まれます。

イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出しました。それは、神と契約で結ばれた民となるためでした。今日朗読されるのは、シナイで律法が授与された後に契約が締結された、その儀式の箇所です。

神とイスラエルの民との間の契約が、いけにえの血によって結ばれるという重要なところです。

契約は、イスラエルの民にとって、救いの歴史の中で根元的な出来事です。契約自体が神の選びを示しているからです。

民は神の言葉に従うことによって、神とのいのちの交わりに入るのです。

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第2朗読では、ヘブライ人への手紙が読まれます。ここで、旧約の司祭と対比して、自らを犠牲にされた真の大祭司イエス・キリストの姿が浮き彫りにされています。
 実にキリストは、私たちのために自ら死を引き受けられたのです。

「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」とあるみ言葉は、何と力強い言葉でしょうか。何と希望に導く言葉でしょうか。ゆっくりと味わうことにしましょう。

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今日の福音は、マルコの福音書における聖体制定の箇所です。

今日の福音は、こうはじまります。

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、
弟子たちがイエスに、
「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。

弟子たちは、どのような思いでイエスにこの質問をし、どんな思いを胸に抱いてイエスと共に食事をしたのでしょうか。

この食事は、イエスのイニシアティブのもとにあります。

過ぎ越しの食事は旅だちへの食事です。イエスと弟子たちは、その晩、はるか昔に彼らの先祖イスラエルの民がエジプトの地から出た、解放されたことを記念して祝ったのです。

食事を囲む弟子たち。祝いの雰囲気と同時に、伝統的な儀式のかもし出す厳粛な、荘厳な雰囲気。

食事がはじまって、パンが配られた時に、イエスは「取りなさい。これはわたしの体である」と言われたのです。このようなことは、異例のことでした。

しかも、イエスは、パンは「わたしの体である」と。イエスの渡されるパンはありふれたパンではないのです。

ヘブライ語で、体は、人間の一部ではなく、人間全体を表現します。
 ですから、イエスが言われた言葉の意図するところは、イエス全体、イエス自身であるということでした。

この食事はどの食事をも越えた食事。この食事に与る人は、イエスの「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」にあずかり、救いが現実のものとなるのです。

この契約は発効しており、私たちはこの血にあずかる度ごとに、新しい契約の民の一員とされたことを、心から感謝し喜び祝うのです。この感謝と喜びの源には、あの十字架で流されたイエスの血があるのです。

「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とのイエスの言葉は、イエスの聖体が、イエスの祈りによって、罪から決定的に清められる終末的教会を形成し、新たにイエスが弟子たちと共にする食事は、メシアの食事となることを意味しているのです。

「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」という言葉で終わる今日のみ言葉の余韻、ここから弟子たちにとっての長い夜がはじまります。

最後の晩餐の絵は、古今多くの人々によって描かれ、愛され、大事にされてきました。私たちもその絵を目の前におきながら、そのイメージの中に自分の身をおいて祈ってみてはいかがでしょうか。

祈り

恵み豊かな父よ、
  御子キリストは、その死を記念するとうとい秘跡を
  教会に残してくださいました。
  主のからだを受け、救いの力にあずかるわたしたちが、
  主の死を告げ知らせることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 出エジプト記 24章3~8節

モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を
民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、
「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。

モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに
祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物を
ささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。

モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を
祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。
彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」
と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。
「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいて
あなたたちと結ばれた契約の血である。」

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第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章11~15節

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司として
おいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、
すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、
ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、
汚(けが)れた者たちに振りかけられて、
彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、
まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして
神に献(ささ)げられたキリストの血は、わたしたちの良心を
死んだ業(わざ)から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。
それは、最初の契約の下で犯された罪の贖(あがない)いとして、
キリストが死んでくださったので、召された者たちが、
既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

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福音朗読 マルコによる福音書 14章12~16、22~26節

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠(ほふ)る日、
弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、
どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。

そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。
「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。
その人について行きなさい。
その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。
『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする
わたしの部屋はどこか」と言っています。』
すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、
そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」

弟子たちは出かけて都に行ってみると、
イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、
賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取りなさい。これはわたしの体である。」

また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。
彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、
ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

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