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教会カレンダー

B年 年間第22主日

第1朗読 申命記 4章1~2、6~8節

第2朗読 ヤコブの手紙 1章17~18、21b~22、27節

福音朗読 マルコによる福音書 7章1~8、14~15、21~23節

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ヨハネ福音書によって、数週間にわたって語られてきたパンの話も終了し、今日からまた、マルコ福音書に戻ります。

今日の典礼は、掟、律法を守る、実践することが、救いの条件なのではなく、神の愛、神の救い、いのちを知った人が、おのずと起こす反応が、結果として掟を守る生き方に現れると教えてくれるようです。しかし、注意しないと、いつのまにか形、形式だけが残ってしまい、心を忘れてしまいます。

神の愛を歴史の中で、人生の歩みの中で体験した民は、その神の愛に包まれて、掟、み言葉への従順に招かれるのです。

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今日の第1朗読は、申命記からです。

モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトを脱出して、苦しかった荒れ野の旅を終え、「約束の地」カナンの入り口に着きました。ここで、モーセは荒れ野の旅を振り返り、過去に示された神の愛を回想して、あのシナイでの契約の精神を民に説き聞かせ、イスラエルの民に神に忠実であるよう勧め、死んでいきます。ですから、申命記は、いわば、モーセの告別説教、同時に教えの形をとった契約についての説教の書とも言えます。

申命記は、大きく3つの部分に分かれています。
  1) 荒れ野の回顧と契約の確認(1~4章)
  2) ホレブでの契約の本体(5~28章)
  3) ホレブでの契約の締めくくり(29~30章)
 1)は、民数記10章以下の要約になっており、今日の朗読はこの1)の最後、神の選びの愛とその愛に対する応答の勧めからとられています。

「イスラエルよ」との呼びかけからはじまります。イスラエルの民にとって「律法」とは何かという問いは重要な意味をもっていましたが、今日の朗読は、モーセをとおして与えられた神の掟、律法の精神が伝えられています。心から神を求めている人に、神はどのような方であるかを示しています。

過去が神の救いによって方向づけられたように、これからの歩みも神の指示によって方向づけられる必要がある、とモーセは教えます。

「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神」とモーセは言っていますが、「近くにおられる神」をあなたはどう体験していますか。

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年間主日の第2朗読は、復活節と降誕節に読まれるヨハネとペトロの手紙以外の使徒書が、半継続朗読として用いられますが、今日から26主日まで5回にわたって、ヤコブの手紙が読まれます。

ヤコブの手紙は、旧約の知恵文学が行っているのと同様に、非常に実践的な教えを格言的に述べています。

「真理の言葉によって」生まれたわたしたちです。
 「心に植え付けられた御言葉」は、「魂を救う」力のある言葉と関係があります。つまり、御言葉を聞くだけでなく、「御言葉を行う人」になること、これによってわたしたちは罪に打ち勝ち、神のいのちに生きるのです。

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今日の福音の朗読から、マルコのパンについての段落になります。このパンについての段落は、8章27~35節のペトロの信仰告白とイエスの死と復活を予告する場面でクライマックスに達します。

今日の福音は、「洗わない手で食事をする」ことから、ファリサイ派の人々と律法学者がイエスに質問をなげかける、つまり、イエスに議論を吹きかけるところからはじまります。かれらの批判は、イエスの弟子たちがなぜ昔の人々の言い伝えに従わないかということです。

イエスは、イザヤ書を引用して答えられます。

イエスは、彼らが自分たちの言い伝えを守るために、聖書の教え、神のみ心をないがしろにすると指摘します。このことは、聖書の教え、神のみ心に基づいて生活していると自負していた彼らの立場を、根底からゆるがすことになります。

イエスは、「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」と言われ、「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と内面の清さをお求めになります。このことは、つまり異邦人、諸国の民のキリスト者にも、主の食卓を囲むことを可能にしたのです。

イエスが人の心から出る悪い思いとして「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」をあげておられます。わたしたちの内面を調べてみることは、大切です。
 イエスは、わたしたちの内なる心に働いて、ゆるしと恵みを注いでくださいます。

祈り

全能永遠の神よ、
あなたはひとり子イエスをとおして
み旨を明らかに示してくださいました。
わたしたちがきょうもあなたに立ち帰り、
みことばをいのちの糧とすることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 申命記 4章1~2、6~8節

 イスラエルよ。
 今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。
 
 そうすればあなたたちは命を得、
 あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、
 それを得ることができるであろう。
 
 あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、
 減らすこともしてはならない。
 
 わたしが命じるとおりにあなたたちの神、
 主の戒めを守りなさい。

 あなたたちはそれを忠実に守りなさい。
 
 そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、
 彼らがこれらすべての掟を聞くとき、
 「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」
 と言うであろう。
 
 いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、
 主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。
 
 またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、
 正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。

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第2朗読 ヤコブの手紙 1章17~18、21b~22、27節

 良い贈り物、完全な賜物はみな、
 上から、光の源である御父から来るのです。
 
 御父には、移り変わりも、
 天体の動きにつれて生ずる陰もありません。
 
 御父は、御心のままに、
 真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。
 
 それは、わたしたちを、
 いわば造られたものの初穂となさるためです。

 心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。
 この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
 
 御言葉を行う人になりなさい。
 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、
 世の汚れに染まらないように自分を守ること、
 これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

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福音朗読 マルコによる福音書 7章1~8、14~15、21~23節

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、
 エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、
 つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、
 昔の人の言い伝えを固く守って、
 念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
 また、市場から帰ったときには、
 身を清めてからでないと食事をしない。

 そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、
 昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――

 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。

 「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、
 汚れた手で食事をするのですか。」

 イエスは言われた。

 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを
 見事に預言したものだ。
 彼はこう書いている。
 『この民は口先ではわたしを敬うが、
 その心はわたしから遠く離れている。
 人間の戒めを教えとしておしえ、
 むなしくわたしをあがめている。』
 あなたたちは神の掟を捨てて、
 人間の言い伝えを固く守っている。」

 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。

 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、
 人の中から出て来るものが、人を汚すのである。

 中から、つまり人間の心から、
 悪い思いが出て来るからである。
 みだらな行い、盗み、殺意、
 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、
 悪口、傲慢、無分別など、
 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

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