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聖人カレンダー

4月の聖人

1日 聖フーゴ司教

1052年-1132年

 この時代のフランスの教会は風紀が乱れており、貞潔の誓願を立てている司祭たちも、女性とともに暮らす者が多くいるありさまだった。フーゴは27歳の若さで、教皇グレゴリウス7世からグルノーブルの司教に任命され、教会内の秩序を正しい方向に導くために働いた。宝石などをお金にかえて貧しい人びとを助けたり、土地を贈って修道院を建てたりし、その後52年間、教区を道徳的、経済的に改革して、80歳で帰天した。



2日 フランシスコ(パオラ)隠世修道士

1416?年-1507年

 イタリアのパオラに生まれたフランシスコは、サン・マルコのフランシスコ会修道院に入り、創立者のアッシジの聖フランシスコの精神を徹底して生きようと、14年という長い期間、黙想と断食、苦行という厳しい隠修生活をした。そんな彼の生き方に従う者が次第に増え、この人たちはアッシジの聖フランシスコ小修士会と呼ばれるようになり、1493年に「最も小さき者の会」となった。



3日 聖シクストゥス1世教皇

在位116年ごろ-125年ごろ

 この時代、教皇はギリシア語の名前を付けるのが通常だった。「シクストゥス」という名は「第6番目」という意味で、聖ペトロの次の教皇から数えて6番目にあたるのでこう呼ばれたのかもしれない。また、ギリシア語の同じ音で「ひげを剃った」という意味もある。彼の時代、ローマ人の間ではひげをたくわえるのがはやっていたので、彼の特徴としてこの名がついたのかもしれない。

 当時、キリスト信者たちは厳しい迫害を受けていた。教皇になれば、殉教が待っていることは間違いなかった。こういう状況の中で、教皇となったシクストゥス1世は勇気ある人である。彼は典礼に力を入れ、司祭が感謝の賛歌を唱えるとき、全信徒が司祭と一緒に唱えるべきであると主張した。教皇として10年間を治め、127年に殉教したと言われている。



4日 聖イシドロ司教教会博士

560?年-636年

 イシドロは、スペインのセビリアに生まれる。当時の最も優れた学者のひとりで、「中世紀ヨーロッパの教師」と呼ばれている。兄はセビリアの大司教レアンドロで、スペインをカトリック国とする基礎を築いた人である。イシドロは、兄の後、大司教を務め、青少年の教育のため多くの学校を設立し、神学書、百科事典など多数の本を著した。



4日 聖ベネディクト修道士

1526年-1589年

 ベネディクトは、イタリアのメッシナに生まれる。彼の両親は奴隷だった。彼は18歳のとき、修道生活に入った。多くの奇跡を行い、彼が十字架の印をしただけで、目の不自由な人・足の不自由な人が治ったといわれている。



5日 聖ビンセンチオ・フェレル司祭

1357年-1419年

 ビンセンチオは、スペインに生まれる。18歳でドミニコ会修道院に入って司祭になり、すぐれた説教家として有名になった。39歳のとき、教皇使節に任ぜられ、全ヨーロッパを回り、また英国のヘンリー4世に招かれてロンドン、スコットランド、アイルランドをくまなく訪れ説教した。ビンセンチオの熱のこもった話に心を打たれた多くの人が、彼の指導を受けようと群れになってつき従った。最後の審判についての説教を聞いて、涙を流して回心し、新しい生活を始める人がたくさんいた。



6日 福者ヘルマン・ヨセフ司祭

1150年-1241年

 ヘルマンは、ドイツのケルンに生まれる。12歳の時、プレモントレ会修道院に入って司祭となった。聖母マリアに対する深い信心を持っていたヘルマンは、多くのマリア賛歌を作った。



7日 聖ヨハネ・バプティスタ(ラ・サール)司祭

1651年-1719年

 北フランスの貴族の家庭に生まれたラ・サールは、10歳のときに司祭を志して勉強を始め、27歳のとき司祭になった。貧しい子どもたちの教育の必要を感じ、全財産を投じて貧しい青少年の教育を目的とする修道士会「キリスト教教育修士会」、通称ラ・サール会を創立(1684年)。フランスで、一般民衆の子どもたちに普通教育を行ったのはラ・サールが初めてだった。また、彼は、集団教育という当時としては画期的な変化を教育学にもたらしたことから「近代教育の先駆者」と呼ばれている。しかし当時は、彼の方針はなかなか理解されず、活動に対しての反対もあり多くの苦しみが続いた。

 現在、ラ・サール会は、教育のために働く修道会の中で一番大きく、一万人近い会員が世界各国で教育事業に従事している。昭和7年、カナダ管区の修道士が函館に到着し、日本での活動をはじめた。現在は函館の他に、仙台、日野、鹿児島でラ・サール高校やホームなどを経営している。

 ラ・サールは、学校と教師の保護者である。



8日 聖ジュリア・ビリアート修道女

1751年-1816年

 ジュリアは、北フランスに生まれる。幼いときから信仰が厚く、「聖女」と呼ばれるほどだった。若いときに全身が麻痺し歩けなくなったが、深い信仰のうちに村の人びとに霊的指導を与えていた。23年後に奇跡的に歩けるようになったジュリアは、貧しい子女の教育を目的とした修道会を創立した。階級制がない修道会は、当時としては画期的なことだったが、周囲の理解を得られず、好意を示すベルギーのナミュール市に本部を移し、名称も「ナミュール・ノートルダム修道女会」とした。

 この修道会は日本では、現在ノートルダム清心学園として岡山・広島などで教育事業をしている。



9日 聖マダレナ・カノッサ

1774年-1835年

 マダレナは、イタリアの貴族の家に生まれる。17歳のときにカルメル修道会に入会したが、貧しい子女のために教育をすることの必要性を感じて修道会を去り、「カノッサ修道女会」を創立(1808年)した。

 この修道会は日本には1951年に来日し、世田谷、大牟田(福岡)、水俣(熊本)、大口(鹿児島)で、学校教育・社会福祉活動に貢献している。



10日 聖ジェンマ・ガルガーニ

1878年-1903年

 ジェンマは、1878年にイタリアのカミリアノに生まれる。
 7歳のときに母を失ったが、病に伏す母親の枕もとで彼女の信仰は育てられた。16歳のとき兄が亡くなり、その後父親もこの世を去り、親代わりとなって弟妹を育てたが、自らも脊髄を患うという苦しみを受けた。奇跡的に全快したジェンマは、生涯を罪人の回心のため、また教会の発展のために祈りと犠牲をささげて過ごし、1903年4月11日、25歳の復活祭の前夜、神のもとに帰った。



11日 聖スタニスラオ司教殉教者

1030年ごろ-1079年

 スタニスラオは、ポーランドの保護者である。両親はポーランドの名家の出身だったが、子どもに恵まれず、祈りながら待ち続けて30年後にやっとスタニスラオが授かった。感謝の心から、両親はスタニスラオを聖職者として神にささげることを決め、信仰の面でも愛の行いの面でも立派になるようにと彼を厳しくしつけた。

 彼は両親の期待によくこたえ、学業の面でも信仰の面でも進歩し、貧しい人の世話もよくした。ポーランドの一流大学を卒業後、パリ大学で7年間学び、41歳でクラクフの司教となったが、国王ボレスラフ2世の不品行を戒めたことから、王の反感をかい、ミサをささげているところを、王の部下によって殺害された。



12日 福者ルケシオ夫妻

?-1260年

 イタリアのトスカーナに住むルケシオには、お金持ちになること、社会的に高い地位につくことという二つの夢があった。ルケシオ夫妻は、財産を増やす計画を話し合い、穀物の商売に成功して贅沢な生活をするようになった。みなからちやほやされ、上流社会の人びととも交流するようになり、幸せ者と言われていたが、本人はさほど幸福ではなく、金儲けだけを考えていた生活が自分を冷酷で貪欲な人間に変えていることに気がついた。

 1212年、村にやってきたアシジの聖フランシスコの説教は、渇き求めていたルケシオの心にしみとおり、彼は涙を流した。「もし完全になりたいのなら、帰って持っているものを売り、貧しい人に上げなさい。そうすれば天に宝を積むだろう」という聖書の言葉に従い、妻と共に財産を貧しい人びとに分け与えた。フランシスコ会の第三会(在俗会)に入り、結婚生活を続けながら祈りと慈善活動に生涯をささげた。夫妻は、1260年4月9日、同じ日同じ時刻に息をひきとった。夫婦で聖人として祝われるのは、ルケシオ夫妻だけである。



13日 聖マルチノ1世教皇殉教者

教皇在位 649年-653年

 5世紀から7世紀の教会には、「キリストは真の神であって人間ではない」(キリスト単性説)とか、「神としての意志はあっても人間としての意志はない」(キリスト単意説)という異端が出て、教会は揺れていた。マルチノ1世教皇はラテラン公会議を開き、「キリストは神としての意志と働き、人間としての意志と働きがある」という教理を確立した。異端説を支持していた東ローマ帝国皇帝は、これを知って怒り、教皇を政治的陰謀をたくらむ者として告発し、病気中であるにもかかわらず捕えた。死刑の宣告をした後、教皇の位を剥奪したが、信者の反応を恐れて刑の執行はしなかった。追放の刑に減刑された教皇は、クリミア半島のケルソンで獄死した。

 教会はマルチノを最後の教皇殉教者として、記念している。



14日 聖ヘルメネジルド殉教者

6世紀

 スペインには1世紀からキリスト教が伝えられ、熱心に信仰されていた。そこへ5世紀初めに西ゴート人が侵入し、宗教の力をかりて強力な国家を築こうと、当時流行していたアリオ派の異端説を取り入れたため、いままであったカトリック教会を弾圧した。この弾圧に抵抗して殉教したのが、ヘルメネジルドである。

 ヘルメネジルドは、侵入してきた西ゴート王の王子であり、父王が征服した国の半分を支配していたが、北フランスの王女と結婚し、彼女と大司教レアンデルの影響を受けてカトリックに改宗した。父王のカトリック弾圧に対して、ヘルメネジルドが立ち上がったことを聞いた父王は激怒し、彼を捕え、石の塔の地下室に閉じ込めた。父王はカトリックの教えを捨てるよう何回も使者を送ったが、王子は断固として従わず、父の怒りをかったまま、ついに断首の刑に処せられた。

 その後、父王は自分の非を悔い、西ゴート人もカトリックを信じるスペイン人となった。



15日 聖リドヴィナおとめ

1380年-1433年

 オランダの貧しい家庭に生まれたリドヴィナは、信仰厚く教育する父のもとで、背のすらりとした美しい娘に育った。ところが、15歳のときにスケートで転んで肋骨を折ったことが原因で次々と病を併発し、体じゅうが痛むようになった。生けるしかばねのようになったリドヴィナは次第に邪魔者扱いされた。そんな彼女を支えたのは、イエスの受難の黙想だった。人びとの悩み苦しみを背負って十字架につけられたキリストにならい、リドヴィナも自分の苦しみを人びとの救いのためにささげ、多くの人のために祈った。38年という長い間、彼女はベッドに釘づけられたままだったが、心は清くあり続け、復活祭後の火曜日に息を引き取った。

 かかりつけの医師は彼女の貧しい家の跡地に病院を建て、また彼女の墓地の上にも、現在美しい病院が建っている。



16日 聖マインラード司祭

906年-963年

 マインラードは、スイスのボーデンゼ湖畔の村で、信心深い両親の間に生まれた。5歳のときにベネディクト修道院に預けられ、教育を受けた(当時の教育・文化の中心は修道院であり、ベネディクト会からは多くの優れた聖人・学者が輩出している)。マインラードはベネディクト修道会に入って司祭になり、修道院の中の学校で少年たちの教育にあたった。その後、山奥の小屋で孤独のうちに祈りと黙想の生活を送るようになったが、多くの苦しみ悩む人びとが、マインラードに慰めと救いを求めて訪れるようになったので、彼はさらに山奥に新しい小屋を建て、そこで生涯を送った。しかしここも人びとの知るところとなり、彼は祈りをもって人びとを慰め励ました。

 彼の遺体は小屋のそばに埋められ、この墓で祈る人は慰められて帰るので、多くの巡礼者が世界から訪れるようになった。彼の墓の上には大聖堂が建てられ、その横にはベネディクト会の大修道院、アインジーデルン修道院が建っている。



16日 聖ベルナデッタ

1844年-1879年

 1844年1月7日、フランスのルルドという小さな村で生まれた。非常に貧しい家庭で育ったベルナデッタは、たまにしか学校に行けなかったので、読み書きもできない内気な少女だった。その上病弱で、死ぬまで喘息(ぜんそく)から逃れることはできなかった。

 1858年2月11日、ベルナデッタが14歳のとき、妹と友だちの3人で、家の近くのガブ川の岸辺にたきぎを拾いに行った。すると、目の前の洞窟に不思議な光に包まれた聖母マリアが現れた。しかし、一緒にいた妹と友だちには何も見えなかった。この日から7月16日までの5カ月の間、聖母マリアはルルドの洞窟に18回現れ、「罪びとのために祈りなさい」と、ベルナデッタをじっと見つめながら言われ、彼女は絶え間なくロザリオの祈りを唱えていた。

 ベルナデッタは、家の手伝いをしているときも、ヌヴェール愛徳修道会に入ってからも、臨終の床で耐え難い苦しみの中にあるときも、いつもロザリオの祈りをささげていた。1879年4月16日、35歳の若さで亡くなり、修道院内の墓に埋葬された。死後30年、40年、46年と彼女の墓が開けらたが、遺体は全く腐敗しておらず、1933年12月8日、教皇ピオ11世によって列聖された。ベルナデッタの遺体は、今もヌヴェール愛徳修道会の聖堂に静かに安置されている。聖地ルルドは、年間400万を越す人びとが世界中から巡礼に訪れ、聖母マリアが現れた洞窟から湧き出る水によって、今も多くの奇跡が行われている。



17日 聖ベネディクト・ラブル巡礼者

1748年-1783年

 ベネディクトは、フランスのアメットに生まれる。2、3の修道院に入ってみたが、自分には適していないと悟り、22歳のとき、世の中に生きながらキリストの清貧の生活を志すことを決意して、欧州各地に巡礼の旅に出た。着のみ着のまま、何も持たず、祈りを唱えながらの旅を6年続け、最後にあこがれのローマに着いた。ここで彼は昔の殉教者たちの壮烈な最期をしのび、40時間祈り続けることを楽しみとして7年過ごした。聖母マリアの聖堂での40時間の祈りの後、階段を降りたところで倒れ、亡くなった。「聖人が亡くなった」といううわさを聞いて人びとが集まり、死後4日間におよぶ全市をあげての荘厳な葬儀のうちに、遺体はアドモンテスの聖堂の中に埋葬された。

 ローマで親しまれている聖人の一人である。



18日 聖アポロニオ殉教者

?-186年

 アポロニオは、2世紀のキリスト教迫害時代に生まれた。上流階級の学者で、好奇心から聖書やキリスト教著書を学んだが、その真理に心を捕えられて信者となった。立派な言行で信者の手本となり、信仰を求める人にはよき指導者となった。時の皇帝コドモはキリスト信者に寛大だったので信者の数は増えたものの、地方の総督たちが勝手に迫害するのを止めるということはしなかった。

 ある日、アポロニオに恨みを抱く小間使いが「アポロニオはキリスト教徒である」と訴えた。逮捕されたアポロニオは信仰を捨てなければ処刑すると言われたが、信仰を貫き通し、「全世界の人びとの前でもわたしは大声で言います」と信仰を表明し、斬首の刑となった。



19日 聖アルフェッジ大司教

954年-1012年

聖アルフェッジ大司教

 聖アルフェッジ大司教は、イングランド、ウェストンの高貴な家庭に生まれた。後に修道士となり、聖ベネディクトの会則に従って共同体を作った。

 彼は、984年にウィンチェスターの司教、1005年にはカンタベリー大司教に任命された。教会や修道院の規律の改革、貧しい人びとの救済に献身した。10世紀末、イングランドはデーン人(バイキング)に攻撃され、彼はカンタベリーで捕らえられた。多額の身代金を要求されたが、彼は小教区の貧しい信徒たちが払うのを望まず、7ヶ月間監禁された。拷問の末、1012年4月19日、復活祭の日、斬首によって殉教した。

 当初、ロンドンのセント・ポール大聖堂に埋葬されたが、1023年にはカンタベリー大聖堂に移された。当時から殉教者として敬われ、1078年、教皇グレゴリオ7世により列聖された。



20日 聖コンラド修道者

1818年-1894年

 コンラドは、南ドイツの一寒村の、信仰深い農民の子として生まれた。少年時代に両親を失い、33歳のときに聖フランシスコ会に入った。その後40年間、修道院の門番という自分の仕事を忠実に務め上げた。修道院を訪れる人に対しての心のこもった態度は彼の豊かな信仰生活からにじみ出るもので、人びとを幸せな気持ちにさせた。特に彼は貧しい子どもが大好きで、道で子どもたちに会えば、童心に返って語り合い、パンやお菓子を与え、祈りを教え、導いた。「祈らなければならない!」これがコンラドの口ぐせだった。彼は、貧しい人を救う者として親しまれている。



21日 アンセルモ司教教会博士

1033年-1109年

 中世思想の創始者、大神学者であり、カンタベリーの大司教であったアンセルモは、北イタリアのピエモンテの貴族の家に生まれた。16歳のときベネディクト会修道院に入ることを希望したが、一人息子として家を継がなくてはならない身分であることから、入会を拒否された。さらに優しかった母が亡くなったこともあって、自堕落な生活を送るようになった。

 しかし、修道院に入りたいという望みは消えておらず、26歳のとき誓願を立てることができた。アンセルモは人の心の動きを知ることに敏感で、それぞれに適した指導を与え、愛される修道院長として修道院の管理、修道者の指導、哲学の研究にあたった。その後カンタベリーの大司教となり、イギリス教会の基礎作りに貢献した。アンセルモは教師としても優れた人であり、また中世カトリック神学の基礎となったスコラ哲学の基礎を作った。



22日 聖エウフラジア修道女

1796年-1867年

 エウフラジアはフランス革命の最中、フランスに生まれた。信仰深い両親に育てられ、17歳のとき周囲の反対を押し切って愛徳の聖母避難会修道会に入った。その後、院長となったエウフラジアは、フランスの各地に修道院を建て、愛徳の聖母避難会を「善き牧者愛徳の聖母修道会」として新たに発足させ、自ら初代総長となった。身よりのない子どもたちや苦しみを抱える女性の保護・更生のために生涯をささげ、福祉・慈善事業を果たした。「悩んでいる人びとを慰め勇気づけ、神の恵みによって幸せにしてあげてください。これがあなた方の義務なのです」と、いつも修道女たちを励ましていた。

 この修道会は、日本では大阪、仙台などで社会福祉事業・養護施設・幼稚園・学生寮をしている。



23日 聖ジェルジオ殉教者

280年-303年

 ジェルジオは、小アジア(現在のトルコ)に生まれる。少年時代にローマ陸軍に志願し、17歳のとき、将軍だった父に従って出陣し手柄をたてた。彼は、ローマ皇帝ディオクレチアヌスの信任を受けた、勇敢で信念の強い軍人だった。しかし、キリスト教に対する迫害が起きたとき、「キリスト教は真の宗教です。保護してください」と皇帝に願った。皇帝は、有望な青年将校を惜しんで信仰を捨てるよう説得したが無駄だった。ジェルジオは23歳の若さで殉教した。

 十字軍時代に、イギリスはジェルジオを保護者に選んでおり、ローマ殉教録では「殉教者の冠」と仰がれている。



23日 聖アダルベルト(マクデブルグ)司教殉教者

?-981年

 ロシアのキエフのオルガ女王は、70歳のときにキリスト信者になり、臣下の者たちをも改宗させたいと思っていた。それで女王は、キリスト教国であるドイツのオットー大帝に、宣教師をロシアに派遣してくれるように依頼した。依頼を受けたオットー大帝は、聖マクシミン修道院のアダルベルト修道士を宣教師団の長に選び、一行を派遣した。しかし、アダルベルトたちが宣教を始めようとしたとたんに、オルガ女王の異教徒の王子が彼女を退位させて自ら王位につき、キリスト信者たちを迫害し始めたのである。この迫害をのがれドイツに帰ることができたのはアダルベルトだけであった。

 その後、アダルベルトは、オットー大帝からをウェイセンベルグの修道院の院長に任命された。彼は、修道士の義務が、教会の歴史を記録することであるとの信念を持っており、その編纂に力を注いだ。当時記された年代記は、今日まで残っている。また、オットー大帝の国教政策によって、968年に最初の大司教としてアダルベルトが任命された。



24日 聖フィデリス(ジグマリンゲン)司祭殉教者

1577年-1622年

 フィデリスは、南ドイツの町長の子として生まれた。大学で哲学と法律学を学び、スペイン、フランス、イタリアの一流大学に遊学し、帰国して弁護士となった。事件解決が早く、正義のために闘ったフィデリスの名声は高くなったが、神の道を徹底して生きるため弁護士を廃業し、35歳のときに司祭となってカプチン会の修道院に入った。

 指導力があったフィデリスは、熱心なカルヴィン派のいるドイツやスイスに布教活動のために派遣された。殉教の覚悟で行ったが、活動は大きな成果を収めた。しかし反対も多く、反感をもっている人びとから説教中に暗殺された。このときもフィデリスは、殺した者たちのために「彼らをおゆるしください」と、息も絶えながら神に祈ったという。



25日 聖マルコ福音記者

1世紀

聖マルコ福音記者

 マルコは、キリストの時代にユダヤに生まれた。マルコの家は広かったので、使徒や信者たちの集会に使用されていた。このときのマルコはまだ若く、後になってペトロから洗礼を受けたと思われる。

 初代教会の偉大な人物バルナバのいとこで、バルナバとともにパウロの旅行にも同伴し、ローマではパウロの、次にペトロの協力者として働いた。パウロの手紙にはマルコの名前が幾度も出ている。またマルコは、ペトロの説教集を集めて福音書を書いた。

 67年、ローマ皇帝ネロの迫害でパウロとペトロが殉教した後、彼はエジプトのアレキサンドリアへ行き最初の司教となり、そこで殉教したと伝えられている。後年、その遺骸がヴェニスに運ばれ、市民の保護者となった。墓の上には大聖堂が建てられ、現在も美しい教会として有名である。



26日 聖アナクレト教皇

在位 79年ごろ-91年ごろ

 アナクレトは、聖ペトロ、聖リノに続く第三代目の教皇である。
 名前から考えると、ギリシア人で、もとは奴隷だったと思われる。

 アナクレトは、ローマを25の小教区に区分した。伝承では、91年ごろドミチアヌス皇帝の時代に、ペトロやリノ同じように殉教したと伝えられる。



27日 聖ジタおとめ

?-1278年

 ジタは、イタリアの貧しい家に 生まれた。父母の教えに従って、「心は神に、手は仕事に」をモットーによく祈り、よく働いた。13歳のとき裕福な家のお手伝いとなり、生涯そこで働いた。ジタは心やさしく、貧しい人にたびたび食べ物などを分け与えていた。あるクリスマスの夜に、凍えそうな老人に出会い、コートを貸した。実はその老人は天使であったと言われ、そのことによってますます彼女は、人びとから尊敬されるようになった。

 ジタは60歳でその生涯を閉じ、遺体は彼女が祈りに通った聖フレディアノ教会に、今も横たわっている。



28日 聖ルイ・マリー・グリニヨン・ド・モンフォール司祭

1673年-1716年

 グリニヨン・ド・モンフォールは、フランス北西部の町で生まれた。敬虔で徳の高い両親に育てられ、イエズス会の学校で学んだ。哲学終了後、パリのサン・スルピス神学校に進み、司祭になった。厳格なヤンセニストに対して、人生の目的や信仰生活を人びとに説いた。また聖母に熱心に祈っていた。

 グリニヨンは、『聖母に対する真の信心』『聖母の秘密』などの本を書き、聖母への祈りを広めた。

 1703年に、病人・貧しい人を世話する「英知修道会」を、翌年にはパリに「マリア宣教会」を創立した。



28日 聖ペトロ(シャネル)司祭殉教者

1803年-1841年

 ペトロは、フランスに生まれた。早くから宣教師になることを志し、27歳のときに司祭となった。その後「マリスト会」に入会し、宣教師として大洋州に派遣される。その島は古い迷信の風習があり宣教がとても難しかったが、現地の人に溶け込み、島の王子に洗礼を授けた。しかし、そのことで王の怒りをかい捕えられ、37歳の若さで殺害された。



29日 聖カタリナ(シエナ)おとめ教会博士

1347年-1380年

 カタリナは、おとなしい父と働き者の母の24人の子どもの末っ子として、イタリアのシエナに生まれた。幼いときから修道生活に憧れていたが両親の反対にあい、18歳のときにドミニコ会の修道院に入ることができた。14世紀は、教会内の分裂、ペストの流行、教皇のローマからアヴィニョンへの退去などで混乱していた。カタリナはペスト患者や貧しい人びと、刑務所にいる人びとのために献身的に働いた。また、手紙や著書をもって教会と国家のあいだの困難な問題、特に教皇のローマ帰還、ドミニコ会の改革のために貢献した。

 現在、シエナの中心に緑と白の縞模様のカタリナ聖堂が建っている。

  カタリナの祈り
   永遠の神よ、あなたの光のうちにわたしたちは光を見ます。
   主よ、お願いですからこの光をすべての人びとの上に注いでください。
   見えない人たちに、あなたを愛し、あなたを望み、あなたを知るように、
   彼らに目を与えてください。
   あなたに感謝します。
   わたしに多くの人びとを愛するように
   広い心を与えてくださったことを心から感謝いたします。
   彼らをあなたの光で照らしてください。
   主よ、わたしをあわれんでください。
   そしてあなたの味わい深い祝福を注いでください。アーメン。



30日 聖ピオ5世教皇

在位1566年-1572年

 アントニオ・ギズリエーリは、1504年にイタリアのロンバルディアの貧しい家に生まれた。若いときにドミニコ会に入り、1550年に宗教裁判所長となって異端審問官を長く務めた。厳格で禁欲的な人であり、また、信心深く、臨終の人を慰めたり、施しを求める貧者を家に招いていた。教会に対する大きな愛と、聖母マリアに対する熱烈な信心が、彼の活動のエネルギーだった。

 教皇になってからは、教会全体から不道徳を払拭し、トリエント公会議の改革規定の実現に力を注いだ。ローマ・カトリック要理(1566年)を出版し、聖務日課書を改訂し、ミサの形式を確立した。現在行っているミサの形式は、この時代に定式化されたローマ典礼によっている。

 晩年は、ロザリオの祈りの形態を定め、トルコ軍の攻撃によって危機に陥ったヨーロッパ・キリスト教諸国のために、マリアの保護を求めてロザリオの祈りを広めたので、「ロザリオの教皇」と呼ばれている。没150年後に列聖された。



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