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第142回 あわれみと罪


第8項 罪

1 あわれみと罪

イエスがこの世に降られる前のイスラエルでは、社会をリードしていたファリサイ派の人々や律法学者たちの関心事は、その行為を行うことは、罪かそうでないか、あるいは、浄いか浄くないか、汚れるかそうでないか、ということでした。そのため、彼らは、徴税人や病人を「罪びと」と決めつけ、彼らと交わりを持つことさえ汚れるとして、彼らを避けていました。

そのような社会にお生まれになったイエス・キリストは、宣教生活を始められるとすぐになさったことは、病人をいやし、徴税人たちと食事を共にし、貧しい人々に、神の国について話され、彼らを励まされました。このようなイエスの態度は、ファリサイ派の人々や律法学者には理解できないことでした。しかし、見捨てられていた人々にとっては、「この方こそメシアではないか」という希望に心があたためられたのでした。

このイエスの語られたこと、奇跡、行われたこと、ご生涯のすべては、神のあわれみを示し、人々を罪から救うという「福音」・喜ばしい知らせでした。

天使はヨセフにイエスの誕生のことを告げたとき、「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1.21)と言いました。

イエスが最後の晩餐で定められた聖体の秘跡も、福音です。イエスは次のようにおっしゃいました。 「これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26.28)。

イエスの約束してくださった神のあわれみを受けるために、私たちは自分の過ちを告白するように求められています。それは、私たちが神のあわれみを受けるという恵みを受けるために、罪を明るみに出さなければならないということです。それは、怪我をした人が医者に治してもらうために、その傷を見せなければ治療してもらえないのと同様です。

こうして、私たちは、自分の過ちを告白し、神のあわれみの恵みを受けることができるのです。

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