home>キリスト教入門>カテキズムを読もう>第3編 キリストと一致して生きる>第1部>第146回 罪の重さ、大罪と小罪 –(2)

カテキズムを読もう

バックナンバー

第146回 罪の重さ、大罪と小罪 –(2)


4 罪の重さ、大罪と小罪 –(2)

先回に引き続いて、大罪と小罪についてのご説明をいたしましょう。

犯した罪が重大なものであっても、以下のことを考慮する必要があります。

それまでの育った環境などの影響から、本人の自由意志によって決断したものではなく、まったく、無知から罪を犯した、と言えるような状況がある場合、重大な過ちであったとしても、その責任が減少されることや、免除されることもあり得ます。しかし、自分も含めて全ての人間を考えたとき、その心に良心が刻まれており、これはしてはいけないことだ、ということは知っているということも、また事実です。

また、感覚の衝動や情熱、外圧や病理学的な障がいも、人間の意志に影響を及ぼすことがあります。そのときには、その責任は軽くされることもあります。

もっとも重い罪は、悪意による罪、悪を意図的に選んで犯す罪です。大罪は、愛と同じように、人間の自由意志によって選び取ることが可能なものだということを、しっかり覚えておきましょう。ですから、アダムとエバが罪を犯したときのように、大罪は愛を失わせ、神からいただいた恵みの状態を失わせるものです。

この状態から立ち戻るためには、悔い改めと神のゆるしによって、その罪が取り除かれない限り、キリストのみ国、神の国から追放されたままなのです。ただし、私たちは、罪を犯した人を見るとき、たとえ、その罪が重大なものであると判断したとしても、罪を犯した人については、神の正義と憐れみに委ねなければなりません。

では、次に、小罪について見てみましょう。

小罪は、小さな事柄について、道徳律による規準を守らないとき、あるいは、客観的に考えても重大な事柄であったとしても、十分な認識がないとき、また完全な同意をせずに、罪を犯すときに犯した罪のことを指します。

小罪を犯した結果はどうなるのかと言えば、愛を弱めてしまいます。その結果、現世的なものに愛着したり、神への歩みを続ける上での進歩を妨げたりするので、有限の苦しみを受けるのに値するものとなるのです。ですから、意図的に小罪を犯したり、悔い改めないままでいると、大罪を犯すほうへと流されたりする危険性があるのです。

しかし、小罪によって、神の恵みを完全に失ってしまったりすることはありません。神の恵みによって、償うことができるものです。

マタイ福音書の中に、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。」(12.31)と、イエス様がおっしゃっているのをお聞きになったことがおありだと思います。

前へ 

▲ページのトップへ