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第163回 旧約の律法


2 旧約の律法

道徳法には、自然法と旧約の律法と、福音の法とがあります。先回までは、道徳的自然法についてお話しいたしましたので、今日からは、旧約の律法に入りたいと思います。

自然法については、すべての人がはっきりと、同じように理解しているわけではありません。この自然法については、すべての人が明確に理解するためには、神からの恵みと啓示がなければ人間には不可能です。

そこで神は、イスラエル民族をご自分の民として選び、ご自分の法を啓示してくださいました。これが、旧約の法です。この法が与えられたのは、キリストをこの地上に遣わすにあたって、民の心を準備するためでした。

旧約の律法は、民の指導者として立てられたモーセを通して、イスラエルの民に示されました。これが、啓示された法の最初のものです。その道徳的おきては、十戒に要約されています。

人間は、神にかたどって造られました。このことは、「神の似姿としての人間」についての項で、すでによくご存知のはずですね。十戒は、このような人間の召命の土台となるものです。

十戒とは、人間への神からの呼びかけであり、神への道を示すものです。同時に、人間を悪から守るためのものでもあり、すべての人の良心を照らす光でもあります。

キリスト教の伝承によれば、モーセの律法は、聖なるものであり、霊的なもの、よいものですが、まだ不完全なものです。というのは、律法は家庭教師や養育係のようなもので、「あれをしなさい」とか「これをしてはいけません」ということは教えるのですが、それを実行に移す力や恵みを与えてくれるものではないからです。

律法は罪を取り除くことはできません。律法は、そのように限界があるものですが、神の国に向かう歩みの、第一の道程であることに変わりがありません。ですから、律法は、イスラエルの民や、私たちキリスト者を回心に導き、救い主である神への信仰を準備させてくれるものです。

旧約の律法は、ある種の福音の準備です。
律法は、イスラエルの民にとっては、教えであり、来るべき現実の預言でした。
律法は、キリストによって実現される罪からの解放を予告するものでした。
律法は、神の霊に基づいた生き方を表すための「予型」や象徴などを新約聖書に提供するものです。

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