home>キリスト教入門>カテキズムを読もう>第3編 キリストと一致して生きる>第1部>第179回 倫理生活と宣教としてのあかし

カテキズムを読もう

バックナンバー

第179回 倫理生活と宣教としてのあかし




1 倫理生活と教会教導権 –(1) 

教会が、自分の子どもたちにキリスト教倫理を教えたり、適用するのは、母であり、養育者としての務めがあるからです。これは、ある意味で、教会の当然の務めです。

この大切な務めを果たすために、教会は、ふさわしい人材を投じます。まず、司牧者の献身、神学者の博識な知識が必要です。しかし、これだけでは十分ではありません。

すべてのキリスト者とすべての善意ある人々の協力がなくては成功しません。「えっ、わたしのこの力が必要なんですか? 何も出来ないわたしなのに」。こう思われるかも知れません。しかし、そうではないのです。あなたの力がどうしても、必要なのです。

わたしたち一人ひとりは、洗礼によって神の子としていただきました。そして、神からみことばであるイエスをいただき、イエスの言葉を福音として受け取っています。

受け取るだけではなく、そのみことばと恵みを生きようとしています。この「キリストに結ばれた生活体験」によって、神様のこと、人と人のことを正しく判断できるようになるのです。こうして、神の霊に照らされた知恵は、あるときは、どんな学者よりも優れた知恵を輝かせることがあるのです。

司牧者の働きである役務は、兄弟姉妹への奉仕の務めです。ですから、教会への献身の精神をもって、キリストのみ名によって果たされているのです。

また、わたしたち一人ひとりは、自分の行為について、倫理的判断をするときには、あまりにも個人的な考えに固執するのではなく、全ての人の善を考えて判断すると間違うことは少ないでしょう。

個人の良心や理性を、道徳律や教会の教えに対立させることは、正しいことではありません。

このようにしてはじめて、キリスト者の間には教会に対する子としての真の精神が培われていくのです。これは、洗礼の恵みが花開くことなのです。

教会は、やさしい母の心をもって、ゆるしの秘跡をとおして、神のいつくしみを分け与えてくださっています。さらに、典礼においても、主のことばと聖体を日々わたしたちに与え、神の子としての恵みに成長させてくださっているのです。

前へ 

▲ページのトップへ