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 ディア・ピョンヤン

2006年8月

Dear Poyngyang

ディア・ピョンヤン

  • 監督・脚本・撮影:梁英姫(ヤン・ヨンヒ)
  • 編集:中牛あかね
  • 音楽:犬丸正博
  • 配給:シネカノン

2006年 日本映画 107分

  • ベルリン国際映画祭・最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)受賞
  • サンダンス映画祭 審査員特別賞受賞
  • 山形国際ドキュメンタリー映画祭・特別賞受賞
  • Asian Festival of 1st Films 最優秀ドキュメンタリー監督賞受賞
  • バルセロナ Asian Film Festival 最優秀デジタルシネマ賞(D-Cinema Award)受賞
  • プサン国際映画祭 正式参加
  • ソウル インディペンデント ドキュメンタリー映画祭 正式参加
  • サンフランシスコ・Asian American映画祭 正式参加
  • スイス・ヴィジョン・デュ・レール映画祭 正式参加
  • カナダ・Hot Docs 国際ドキュメンタリー映画祭 正式参加
  • Paris Cinema映画祭 正式参加

映像作家ヤン・ヨンヒ監督の父親は、15歳のとき、韓国の済州島から日本に渡って来た在日一世です。金日成に忠誠を誓い、朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯会)の幹部として、長い間、妻とともに在日朝鮮人の人々のために尽くしてきました。息子3人、娘一人に恵まれましたが、「帰国事業」の際、息子たちは3人そろって北朝鮮に帰国しました。上の息子が18歳、下の息子はまだ14歳でした。

ディア・ピョンヤン

娘のヤン・ヨンヒは、北朝鮮のために働く両親の生き方に、「なぜ、そこまでするのか」と疑問を感じながら過ごしてきました。この映画は、ヤン監督がそんな父の姿を10年間にわって撮影したフィルムをまとめたものです。

息子たちが祖国に帰ってから、母は、日用品などを息子たちに送り続けています。今、息子たちは、それぞれ家庭を持ち、孫もできました。母は、孫たちのための文房具をたくさん買い集め、段ボール箱に詰めこんでいます。北朝鮮の国の状況が分かってから、送る段ボールの数は増えていきました。部屋の隅では、ステテコ姿の父が母を見ながら、カメラを回すヤン監督の質問に答えています。父と娘の会話を聞きながら、母は大きな声で笑っています。両親は仲のよい夫婦です。父は、在日2世の母に一目ぼれして結婚し、今も妻を大切にしています。

ディア・ピョンヤン

2001年の秋、父は4年遅れで古希を祝うために、ピョンヤンに向かうことになりました。息子たちが招いてくれたのです。ヤン監督と両親は、飛行機と電車を乗り継いで新潟港に着き、万景峰号(マンギョンボンゴウ)に乗りました。ピョンヤンを訪れるのがうれしくてたまらない父と母。しかし、ピョンヤンに向かうバスの窓から「ピョンヤンまで16km」という標識が見えたとき、ヤン監督は、なんとも言えない思いを感じました。その標識は、いつまでもヤン監督の心に残りました。

父は北朝鮮政府から受けたたくさんの勲章を胸に飾り、古希を祝う会場に向かいました。会場である高級レストランの広間には、息子たち家族だけでなく、何時間も列車に乗ってやってきた人たちが100人ほど集まりました。そのほとんどが、帰国事業で日本から北朝鮮に帰っていった人たちでした。両親は、3人の息子たちだけでなく、親戚や友人たちの生活も援助していたのです。彼らからお祝いの言葉を受ける父を見ながら、ヤン監督は、今まで知らなかった両親の姿があることを知りました。

ヤン監督の結婚相手は、「アメリカ人もダメ! 日本人もダメ!」と言っていた元気な父でしたが、脳梗塞で倒れ、入院してすっかり弱くなってしまいました。仕事のために韓国の国籍を取りたいヤン監督は、今度も許されないだろうと思いながら、ベッドに横たわっている父に尋ねてみます。息子や孫たちには「将軍様」への忠誠を求める父でしたが、ヤン監督への態度は違いました。「仕事のために必要なら、韓国籍でもいいよ」と許してくれたのです。ヤン監督は父の変化にとまどってしまいました。「ありがとう!」ヤン監督は、父の手をやさしく握りました。

 

約3万人の在日コリアンが暮らす在日の町・生野の暮らし、万景峰号の船内の様子、ピョンヤンの息子たちの生活、レストランでの様子。そこには、マスコミの報道からは見えない、北朝鮮の人々の姿がありました。在日の人々が、どのような気持ちで祖国を思い暮らしているのか、かいま見ることができます。考え方が違う父と娘の心の変化……という点からみても、内容の深いものがある作品です。

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