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 嗚呼 満蒙開拓団

2009年6月

ああ まんもうかいたくだん

嗚呼 満蒙開拓団

  • 監督・ナレーター:羽田澄子
  • 撮影:相馬健司
  • ピアノ:高橋 アキ
  • 吹き替えナレーター:喜多道枝
  • 配給:自由工房

2008年 日本映画 120分

  • 2008年キネマ旬報文化映画ベストテン第1位
  • 2008年日本映画ペンクラブ文化映画ベスト1
  • 2008年東京国際女性映画祭オープニング作品
 

羽田監督は、旧満州の大連に生まれました。終戦から3年経った2次の引き揚げで帰国したそうですが、そのとき引き揚げ船に乗る桟橋を渡りながら「これでみんな帰れるのだろうか」と思ったそうです。しかしその後は、日本での生活に没頭して忘れていましたが、再び、中国に関心を持ったのは、中国残留孤児の調査がはじまり新聞に載るようになってからだそうです。2002年に中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟がはじまってからは、裁判の成り行きに関心を持つようになったそうです。

そのころ、「方正(ほうまさ)友好交流の会」から会報が送られてきて、羽田監督は亡くなった日本開拓村の難民のために、中国の人々がお墓を建立してくれたことを知りました。「方正地区日本人公墓」です。「日本人から虐げられていた中国の人々が、なぜ日本人のためにお墓を建てたのだろう」と思った羽田監督は、その思いを抱いて「方正地区日本人公墓」のツアーに参加しました。そのときの様子を土台にして歴史を振り返ったのが、「嗚呼 満蒙開拓団」です。

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日中友好園林の中にある方正地区日本人公墓は、戦後18年に立てられ、4,500人の遺骨が葬られています。

満州への渡航は、昭和20年の5月まで行われていました。日本政府はギリギリまで人々を満州に送り込んだのです。

終戦を迎えた羽田監督たち家族は、一か月間夜道を歩いて、方正までやって来ました。しかし、日本に渡ることはできず、方正で冬を越すことになりました。寒くて、食べ物がなく、生きるためにお母さんは4人の子どもを連れて再婚しました。当時、中国の人は、日本人を鬼と思い、男の子は鬼の子と呼ばれました。日本人は悪い人と思われていたのですが、そんな日本人ばかりではない、優しい人もいるんだということを示したくて、一生懸命よいことをしました。

襲撃を受けるたびに、自決するか、逃げるか、集団で逃げるか、個人で逃げるかを迫られました。2度目の襲撃を受けたとき、300人余りの人々が青酸カリを与えられて自決または殺されました。

自決した人々、殺された人々のおびただしい遺骨を見た残留女性が、遺骨を埋葬したいと願い出て、その願いが県政府から中央政府まで届き、周恩来のもとにまで行きました。日本人のためにお墓を建てることが実現したのは、周恩来の思想によるものです。彼は、日本人と日本軍を区別して考えており、日本人も軍の犠牲者だと思っていました。彼の許可によって、日中国交が回復していない時期にもかかわらず、日本人公墓が建てられることになったのです。

文化大革命のとき、日本人公墓を破壊しようという動きがあったそうですが、黒竜江省政府は「彼らに罪はない」と公墓を守ってくれました。

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「どうして、この悲惨な状況が生まれたのか」「この責任はどこにあるのか」疑問はつきません。生き残った人々は言います。「日本は、この平和を大切にしなければ」と。監督は、日本の歴史を考え、また中国との関係を大切にしていくために、この映画が役立つことを願いながら製作されたそうです。また知らなかった日本の歴史と出会った、という感じです。

足手まといとなった乳幼児や子どもたち、また女性たちが中国の人々に助けられて暮らしてきました。この悲しく辛い時代は、テレビドラマ化や映画化されています。話題となったNHKドラマ「遙かなる絆」や「大地の子」、日本に帰るために乳飲み子を抱いてトラックに乗ろうとしたものの、荷台から籠に入った赤子を落とされ、離ればなれになった母と子を描いた「乳泉村の子」、満州で大成功した家に生まれたなかにし礼が書いた小説を映画・テレビ化した「赤い月」、結婚の披露宴のさなかにソ連軍に攻撃されて逃げ、姉弟といつわって中国の家庭に助けられた夫婦を描く「純愛」などなど。しかし、この作品によってはじめて、亡くなった日本人を弔ってくれた中国の人々がいたことを知りました。

満蒙開拓団とは:
1931年以後、日本政府は国策として旧満州、内蒙古に日本人を入植させました。彼らは“満蒙開拓団”と呼ばれ、1945年の敗戦までに、約27万人が送られたと言われています。しかし、そのうち8万数千人が帰国できずに亡くなりました。


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