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第2バチカン公会議から50年

公会議の教え、そして今、自らへの課題は?

ペトロ・ネメシェギ

イエズス会士・在ハンガリー

50年前に開催された第2バチカン公会議は、カトリック教会に大きな変化をもたらした。それは重点をキリスト教の本質に置くことによって実現された変化である。

公会議はこの本質を、短いことばで、数回表現した。たとえば「啓示憲章」(神の啓示に関する教義憲章」の(2)は次のように言っている。「神は、その愛と英知によって、自分を啓示し、またその意志の奥義を明らかにしようと望んだ。この望みは、人々が受肉したみことば・キリストを通して聖霊によって御父に近づき、神の本質に参与する者となるということである」つまり、三位一体の神はご自身を人々に啓示し、自身の本性といのちに、人間を参加させられる。

「宣教活動に関する教令」(教会の宣教活動に関する教令)(2~3)は、同じことを別のことばでこういっている。「御父から御子が生まれ、聖霊が子を通して発出する。御父は、その無限の慈愛と、あわれみとによって、みずから望んでわれわれをつくり、そのうえ、われわれを自分の生命と栄光とに参加させようとやさしく招きつつ、神の善を惜しみなく注ぎ、また今後も注ぐことをやめない。こうして万物の造り主がついにすべてにおいてすべてとなる」「神は、われわれと同様のからだを取った御子を派遣することによって、御子によって人々をやみと悪魔の権力から救い出し、かつ御子において世を自分に和解させようと望んだ」

さらに「現代世界憲章」をも引用しよう。「人間性はキリストにいおいて神の御子と統合させること自体によって、人間性はわれわれにおいても、最高の品位にまで高められたのである。事実、神の御子が人間になることによって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。キリスト者は、愛の新しいおきてを守ることを可能にする聖霊の初穂を受ける。そして、キリストの死の様を身におび、希望に力づけられて復活に至るであろう」(22)

公会議が、キリスト教のこの本質を人々のうちによりよく実現するために述べた教えを、次の17点にまとめることができると思う。

(一)神の啓示は、行いとことばによって実現される自己啓示である。すなわち、それは、さまざまな命題の収録ではなく、イエス・キリストを頂点とする過程である。キリストが実現し、また宣教した福音が世の終わりまで全世界に伝えられるため、キリストは使徒たちを派遣した。その福音は、聖霊の霊感によって書かれた聖書と、使徒に由来する聖伝によって伝えられ、その解釈が教会の教導権にゆだねられている。

(二)教会の教えも、信者の信仰も、聖書によって養われるべきである。だから、聖書を読み、理解する機会をすべての信者に与えなければならない。

(三)ミサを中心とする典礼は、キリストの司祭職の行使であり、それにおいて人間の聖化が示され、また実現される。だから信者は意識的、行動的に典礼に参加するべきである。

(四)教会は、旅する神の民であり、キリストの神秘体である。その頭はキリストであり、その信者は神の子らとしての品位と自由を備え、愛せよとのおきてを法として守っている。教会は常に拡張されるべきで、世の終わりに神によって完成される。教会の四つのつとめは、①福音を宣べ伝え②愛の共同体となり③神にいのり④社会に、とくに貧しい人々に奉仕することである。

(五)キリストは、神の民を牧するために、教会の中で種々の役務(司教、司祭)を制定した。彼らのつとめは、神の民全体によって保存された信仰を表現し、信者を導いて、教会の一致を守り、キリストの名において、ミサと諸秘跡を執行することである。

(六)司教たちが、一つの司教団となり、ローマ教皇とともに、全教会のうえに最高の権能をもっている。

(七)キリストの教会は、信者の正当なすべての地方的集団の中に真実に存在する。これらの集団がしばしば小さく散在しているものであっても、キリストはそこに現存し、彼の力によって、一、聖、カトリック(公)、使徒的な教会が集まる。これらの集団は、自国民の風習と伝統、英知と教説、芸術と学問から、キリスト者の生活を正しく整えるために役だついっさいのものを取り入れる。

(八)キリストは、すべての信者が、聖性を追求し、完全なものになるように、彼らをまねいている。したがって、修道者だけでなく、すべての信者が聖人になることができる。

(九)教会はキリストのおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり、道具である。

(十)すべての人間が神の像として造られ、神から同じ召命を与えられているから、すべての人が基本的に平等である。

(十一)教会は、カトリック以外のキリスト教的共同体にいる人々を、きょうだいに対する愛をもって抱擁する。話し合いによって、様様な問題を解決し、さらに一致するように努力しなければならない。

(十二)教会は、キリスト教以外の諸宗教の中で見いだされる真実なものを何も排斥せず、尊敬の念をもって、それらを考察する。

(十三)聖霊がすべての人間に、キリストによって救われる可能性を提供する。

(十四)キリストの弟子は、現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、とくに貧しい人々の悲しみを、自分の希望と悲しみと感じている。人間の尊厳、愛の交わり、自由などのすべての価値あることを、この世で広めるべきである。それらの価値を永遠のみ国において、再び見いだすであろう。

(十五)信教の自由は、自然として認めるべきである。

(十六)教会には、霊性生活においても、典礼においても、啓示された真理の神学的研究においても、正当な事由を守るべきである。多様なものの一致こそ、教会の理想である。

(十七)キリストは、聖にして、罪のないお方であったが、教会は自分のふところに罪びとを抱いている。だから、教会は、聖であると同時に常に清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力を絶えず続ける。

以上は、公会議のゆたかな教えである。その教えから、今日の日本人の信者は、自分にとって緊急課題と思われる点を選び、それをよりよく実現するようにつとめるべきである。神さまの力に頼って。


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