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日本のカトリック教会の歴史

12.現代に生きる教会  - 太平洋戦争以降 -

太平洋戦争と教会

ステンドグラス

1941(昭和16)年、真珠湾攻撃からはじまったアメリカとの戦争は、すべての人にとって、大きな悲劇となりました。

被爆の聖母(長崎・浦上教会)
被爆の聖母(長崎・浦上教会)

カトリック教会も大きな苦しみと損害を受けました。信徒をはじめ、若い司祭や神学生も軍隊に召集され、外国人宣教師は、追放されたり収容所に送られたりしました。教会は、あらゆる活動を停止され、祈ることしかできなくなっていきました。

アメリカの攻撃が日本本土に及ぶと、教会や教育施設も爆撃にあいました。そして、1945(昭和20)年8月、広島と長崎に原爆が落とされました。長崎の原爆投下地点に近かった浦上天主堂は、がれきの山と化し、長崎では8,500人もの信徒が 一瞬にしていのちを失いました。この戦争で、全国では13,000人以上の信徒がいのちを失い、多くの教会の建物も破壊されました。

終戦  - 新しい時代へ -

1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争は終わりました。日本は戦争に負け、街は廃墟となってしまいました。カトリック教会はこの廃墟に建物を建て、深い失望と不安の中にいる国民にキリストの福音を告げていく使命がありました。

それまでキリスト信徒を悩ませていた、宗教団体に対する法律は終戦後まもなく廃止され、翌年発布された新しい憲法、日本国憲法には、完全な信仰の自由が盛り込まれました。

全世界から、たくさんの援助が寄せられました。特に戦後の最初の10年間に、男子修道会38、女子修道会26が来日して、社会福祉事業や、学校教育事業などをおこし、日本の教会の再建を助けました。

またこの時期、多くの司祭、修道者が誕生しました。特に多くの女子修道会をとおして行われた日本女性たちの献身的な働きは、大きな力となりました。

被爆したご像と平和への祈り(長崎・浦上教会)
被爆したご像と平和への祈り(長崎・浦上教会)

教会の発展

戦後、法律などの妨げがなくなったため、キリスト教の各教派は、国の再建におのおの役割を果たし、積極的にキリストの教えを宣べ伝えました。

カトリック教会も、戦後しばらくの間、大きな発展を見せます。1946年、約10万人であった信徒数が、15年後の1962年には 3倍の約30万人になっています。また、司祭、修道者への召し出しも増え、神学校もすでにあった東京の大神学校とともに、1947年には福岡にも大神学校が設立され、新しい司祭を毎年送り出しました。

修道会による教育や社会福祉活動も発展を見せます。また、マスコミの発達によって、この手段を使った宣教は重要な役割を果すようになっていきました。

しかし、1960年代に入ると、発展の勢いは緩やかになってきます。戦後の貧しい時代から、経済発展の時代に入り、人々が物質的な豊かさを求めていったことも一つの原因でしょう。

教会の中にも問題がありました。カトリック教会は、まだまだ日本の風土、文化の中になじんでいませんでした。これは日本の教会だけではなく全世界の教会にも言えることでした。このような現状をみて、当時の教皇ヨハネ23世は、1959年に公会議を開くことを予告しました。

第二バチカン公会議

「教会の窓を開けて新鮮な空気を入れよう」との教皇ヨハネ23世の考えによって、1962年10月、ローマで第二バチカン公会議が開かれました。約3年間続いたこの公会議によって、カトリックの全ての教会は、大きく変わりはじめました。

まず、ミサ・典礼が日本語に訳されました。それまで日本を含めた全世界の教会で、ラテン語で執り行なわれていたミサ・典礼がその国の言葉で行われるようになり、司祭や一部の人たちにしか分からなかった典礼が、信徒も内容を理解し、積極的に教会の典礼にあずかることができるようになりました。また、エキュメニカル(キリスト教一致)運動も次第に盛り上がり、プロテスタントや他の宗教者との話し合いも、さまざまなレベルで行われるようになりました。

1978年には、はじめてカトリック・プロテスタント合同訳の新約聖書が発行されました。

教皇の来日

教皇ヨハネ・パウロ2世
教皇ヨハネ・パウロ2世

1981年2月、教皇ヨハネ・パウロ2世が来日しました。

教皇は、東京で、後楽園球場での野外ミサと、いくつかの集会、そして総理大臣との会見、天皇への訪問を行いました。

広島では、原爆記念の平和公園を訪れ、平和へのメッセージを残しました。「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」

そして長崎では、この日のために再建された浦上天主堂で、15人の新司祭の叙階式、そして、吹雪の中、野外ミサが行われ、約6万人の信徒が参加しました。

日本26聖人殉教者
日本26聖人殉教者

また、日本26聖人が処刑された地 西坂の丘、また、信徒発見の大浦天主堂やコルベ神父の設立した聖母の騎士修道院などを訪問して、3日間の行程を終えました。

この教皇の訪問は、日本の教会にとって、大きな喜びとなりました。

結び…現在、そしてこれからの教会

現在、日本のカトリック信徒の数は総人口に対して非常にわずかです。そして、戦後の一時期に生じた発展のあと、信徒数の増加もあまりありません。

第二バチカン公会議のあとの変化に、まだ順応できていない状況もあります。司祭や修道者への召し出しが非常に少なくなっていることも、そのひとつの結果と言えるでしょう。公会議の内容が理解され、実際に教会に馴染むまでには、まだまだ時間が必要と思われます。

カトリック教会は、小さな群れですが、社会生活や道徳的なことについては、良い影響をおよぼしています。これからも、わたしたちは、キリスト者として、日本人として、他のいろいろな宗教と対話し協力しながら、社会生活に発言、参加、行動し、キリストの愛・福音を人びとに伝えていく使命があります。


注釈:
*1 カトリック信徒の数
2000年度信徒数… 445,240人  人口比…0.353%

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