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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第28回 マタイ15章1節~39節

概要

14章の最後に述べられていた奇跡の評判や、その結果群衆がイエスになびいている様子が都エルサレムにも伝わったのでしょうか、ファリサイ派の人々と律法学者たちがガリラヤまで足を運んで、イエスに論争を挑む場面で15章は始まります(15.1~20)。この部分は
 *ファリサイ派との論争(1~9)、
 *群衆に向けての教え(10~11)、
 *イエスの言葉がファリサイ派の人々をつまずかせたという弟子たちの報告に対するイエスの答えと、ペトロの求めに応じて与えられた群衆に向けての教えの解説 (12~20)
という形で展開し、イエスとファリサイ派との対立が深まるさまが強調されています。しかしこの部分の核は11節の意味を解説している19~20節であり、倫理の内面化が強調されています。

続いて一人の異邦人の女性の、謙虚で信頼に満ちた祈りがイエスを動かして、その娘の病がいやされる事件(21~28)が綴られています。このパラグラフはキリスト教をご存じないかたには分かりにくく、イエスの行為が不可解に思われるのではないかと案じられるので、今回はこれをとくに丁寧に読み、29~31 節はごく簡単に、32~39節は素読で終わりたいと思います。

* 大勢の病人のいやし(29~31)

* 二度目のパンの奇跡(32-39)

マタイ15.1~20 のテキスト

▽ファリサイ的な伝統に関する論争

a ファリサイ派との論争(1~9)

1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。

2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」

3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。

4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。

5 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、

6 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。

7 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。

8 『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。

9 人間の戒めを教えとして教え、
むなしくわたしをあがめている。』(イザヤ29,13)」

旧約聖書に記された律法(掟)は大昔のものですから、律法の本質を見極めて移り行く生活環境に適応していく必要がありました。ユダヤ人はこうして生み出された法規を口伝法規として、大切に語り継いでいきました。テキストに「昔の人の言い伝え(2節)」とか「自分の言い伝え(4節)」とあるのは口伝法規をさします。食事の前に手を洗うことは、
ユダヤ人にとっては衛生上の行為というより、祭儀上の清さを得るための行為でした。手足を水で清めることは聖書によれば祭儀を行う祭司たちに要求されていたことでしたが(出エジプト30.19)、それが口伝法規によってユダヤ人一般に敷衍されるようになったのです。

食事前に手を洗わない人は祭儀上不浄なものとなる、という規定があるのに、弟子たちがこの規定を破っているとして、とがめるファリサイ派の人々の問いに直接答えるかわりに、イエスは次のように切り返しておられます。「『父母を敬え』という厳然とした神の掟(出エジプト20,12; 21,17)があるにもかかわらず、あなたたちは自分たちの作った規定を盾にして、神の律法をないがしろにしているではないか。じっさいあなたたちは『親に向かって"あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にします"とさえ言うなら、父母への孝養の義務を免除される』という口伝法規を盾に『父母を敬え』という神の掟(神の十戒中の第四戒)をないがしろにしているのはどういうことか」と。

b 群衆に向けての教え(10~11)

10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。

11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

次の段でまとめてみることにします。

c 弟子たちに向けられた教え(12~20)

12 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。

13 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。

14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」

15 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。

16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。

17 すべて口に入るものは、腹を通って外(ギリシア語では厠)に出されることが分からないのか。

18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。

19 悪意(悪い思い)、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。

20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

天の父がお植えにならなかった木――聖書の中でイスラエルはたびたび神の植えられた木(ぶどうの木、いちじくの木、杉の木など)にたとえられています。

14節はファリサイ派の人々が指導的立場を取っているが、彼らに導かれるのは盲人が盲人に手引きされるようなものだから、あなたたちはその教えに耳を傾けるなということでしょう。

16節にペトロが登場しますが、マタイ福音書の著者は教会の頭としてのペトロを意識し、12人の中のリーダーとして際立たせています。

16節以降は、12~14節の説明ではなく11節の説明と思われます。口に入る食物は、たとえ穢れた手で食べても、やがて消化され排泄されてしまう。しかし人間の言葉は心から出てくる。心を清めないと、19節に連記してあるような悪に陥る。それらこそが人を汚す。著者は4節で十戒中の第四戒「あなたの父母を敬え」をイエスの唇にのせ、イエスはこの掟を根拠にして話しておられますが、ここに羅列されている悪徳は、モーセの十戒の第五戒以降第十戒までにかかわることです(出エジプト20.12~17参照)。

マタイ15.21~28 のテキスト

▽ カナンの女の信仰

21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。

22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。

23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」

24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。

25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。

26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、

27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

  

21節のティルスとシドン──古代には近隣諸国に名をとどろかせた港湾都市で、この地方は現在のレバノンにあたります。イエスの時代にはフェニキアと呼ばれていましたが、古くは、あのイスラエルが約束の地としていただいた土地と同じくカナンの地とも呼ばれました。住民はもちろん異邦人です。著者は当時の地名フェニキアを用いず、この女性を「この地に生まれたカナンの女」と記すことによって、彼女が異邦人であることを際立たせています。

この女性は異邦人でありながらイエスを「主」と呼ぶばかりか、「ダビデの子」と呼んでいます。「ダビデの子」という称号には神が末の日に送ってくださる「メシア、救い主」という意味がこめられています。異邦人でありながらイエスを約束された救い主と信じているのです。女性は娘の病をいやしていただきたくて必死で叫んでいます。イエスを信じるだけでなく、「わたしを憐れんでください、娘が悪霊にひどく苦しめられています」と、娘と一心同体になって救いを求めているのに、イエスは相手にしてくださいません。なぜでしょうか。

22節の弟子たちの言葉には同情が感じられます。うるさいということもあったかもしれませんが、もしそれだけなら、12人の男たちが一緒になってかかれば簡単に彼女を排除できたでしょう。たぶん、弟子たちにとっても、イエスがこの女性を顧みてくださらないのが不思議だったのかもしれません。

24節の原文を直訳すれば「イエスは答えて言われた」とあり、だれに答えられたかは明らかにされていません。もしかしたら弟子たちや女性によりもご自身に言い聞かせておられるのかもしれません。イエスはまずイスラエルの家の失われた羊のところに遣わされた、これはマタイが受難と復活以前の部分で強調するところです。10章6節でもイエスは弟子たちに「むしろイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言っておられました。預言者たちの言葉の裏づけもあります。一つだけ例を挙げれば、エゼキエル書にはこのように記されています。

(34章11節)まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする………(23節)わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを飼わせる(新共同訳は牧させる)。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。

エゼキエルは紀元前6世紀の預言者ですから、ここで言われているダビデは紀元前10世紀に死んだダビデ王ではあり得ません。あのダビデ王にまさるような良い指導者、救い主が神の民イスラエルのために送られることが約束されています。イエスは神の救いの力が具体的な出来事をとおして表されるためには、特定の時と場所とが必要なことを承知しておられます。たとえばヨハネの福音書2章に語られているカナの村での婚宴の場合にも「ご自分の時」の到来を確認してからでないと奇跡を行われませんでした。イエスはそれを誠実に謙虚に待たれるのです。

それにしても「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というお言葉は、この女性にとってあまりにも酷ではないでしょうか。しかし彼女はくじけません。はため傍目には冷淡に見えるイエスにますます近づきひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と執拗に懇願し続けます。

イエスはかぶせるように、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」といわれました。当時ユダヤ人は異邦人を穢れた者という意味で「犬」と呼んでいました。ここまで言われてもこの女性は動じません。イエスを信じ、娘を思う一心から願い続けるのです。憤慨してののしるどころか一種のユーモアさえ交えて「ごもっともです。子供のパンを犬に投げるのはもったいないことです。けれども小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

この言葉を耳にしたイエスはこの女性に神のご意志に従う堅固な決意があるのを認め、感無量で言われました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされたのです。こうしてやがて始まる異邦人宣教の先取りが実現しました。

山上の説教のさいに、イエスは「叩きなさい、そうすれば開かれる(5.7)」と説かれましたが、この女性はまさにあくまで主を信じ、一言の不平不満や恨みももらさず、怒らず、ひたすら主の憐れみを信じ、娘と心をひとつにしてみ心の扉を叩き続けたのでした。あるところでカルロ・マルティーニ枢機卿は言っています。「イエスは彼女に勝ってほしかったのです……あるラビ(ユダヤ教の教師)が『神はご自分の子らによって乗り越えられたり負かされたりするのを喜ばれる』と言っていますが、そのとおりです。(『ヨブ記の黙想』 女子パウロ会刊170ページ)」

終わりに一言――マタイ福音書では、イエスの復活後にはじめて異邦人に向けての宣教開始が宣言されます。イエスの復活後十二人がかねて主に指定されていたガリラヤの山に登ると、主が現れ、「あなたがたは全世界に行って、すべての人に福音を伝えなさい(28,19)」と命じられました。神のご計画でイスラエルが選ばれたのは、イスラエルをとおして全人類が救われることが神のご計画だからです。イエスがわたしたちに期待されるのも、ひたすら奇跡を求める信仰ではなく、神のご計画を全面的に受け入れ、キリストに結ばれて神に向かって歩み続ける信仰です。

マタイ15.29~31 のテキスト

▽大勢の病人をいやす

29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。

30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。

31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。

25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

30節の背後には明らかに次のイザヤの言葉が読み取られます。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。(イザ35.5~6)」群衆がイエスの行われた一連の出来事を見て驚き、イスラエルの神を賛美したと記すことにより、著者は暗黙のうちにイエスのこれらの治癒の業をとおして、預言されていた救いの時代の幕が切り落とされる時が近づいたのを示しています。

マタイ15:32-39 のテキスト

▽四千人に食べ物を与える

32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」

33 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」

34 イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。

35 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、

36 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。

37 人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。

38 食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。

39 イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

次回は16章13~20節を中心に読んで行きたいと思います。

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