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活憲とヒューマンライツ(人権)

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戦後も人を傷つける兵器とは

「あけぼの」2010年11月号より) 伊藤千尋


武器はふつう、戦いのさなかで使われるものだ。でも、戦争が終わっても人を殺傷する武器がある。

ベトナム中部の町ダナンに「オレンジ剤被害者支援センター」がある。オレンジ剤とは、悪名高い枯葉剤のことだ。薬剤を入れたドラム 缶に危険物の印のオレンジ色のマークをつけたため、こう呼ばれる。

センターには腕がひじまでしかなかったり、両足の膝や手の指が本来とは反対側に曲がっている子がいた。水俣病の被害者に似た症状だ。近づいてきた子が握手しようと手を差し出したので私も手を出したが、その一瞬、息をのんだ。子の腕の先に、手はなかった。腕の先をつかんで握手代わりにした。

枯葉剤は猛毒のダイオキシンを含み、空中から散布すると木々が枯れる。これが人間の体内に入ると、ガンの原因となる。枯葉剤を浴びた親の子は奇形児となって生まれる。ベトナム戦争の中で米軍は7500万リットルもの枯葉剤をまいた。ジャングルの中で活動する解放戦線の兵士が上空から見えるようにするためという理由だった。このために自然が破壊されたばかりか、人間も被害を受けた。

私がこの支援センターを初めて訪れたのは、ベトナム戦争が終わって30年以上たっていた。ところが、支援センターにいる60人ほどの子は、いずれも13歳から23歳までの年齢だ。つまりベトナム戦争が終わってから生まれた子なのだ。戦争中の被害に遭うのなら、それなりに話はわかるが、戦争が終わって戦後に生まれた子に戦争の被害が出るなんて、あまりにもひどいと思った。

ダナンだけで、7,261人の枯葉剤被害者がいるという。うち1,400人ほどが子どもだ。ベトナム全土の被害者は300万人に上るという。彼らにとって、ベトナム戦争は死ぬまで終わらない。

ベトナムを初めて取材した1980年代、枯葉剤の被害がとくにひどかったカンボジア国境地帯のタイニン省を訪れた。ベトナム戦争当時は米軍基地があり、南ベトナム解放民族戦線の根拠地もあった場所だ。ここには一平方メートルあたり一キロの枯葉剤がまかれた。ぬかるみの草原を歩いたが、ここはかつて森だった。ところどころ、根本から1mほどで枯れた木が立っている。まるで森の墓標のようだ。

そんな汚染地区にも人は住んでいた。パンツ一枚で倒木に腰掛けていた少年がいたので近寄ると、右腕のひじから先がなかった。豆粒ほどの指の痕跡がひじにくっついてただけだ。左手の親指は第一関節までしかなかった。

ホーチミン市の病院では、二重胎児で生まれたベトちゃん、ドクちゃんに会った。ベト(越)はベトナム(越南)を指し、ドク(徳)はベトナム語のドイツ(徳国)を指す。生後まもなく旧東ドイツの援助で建てられた病院に入院したから。この名が付けられた。日本の協力で分離手術が成功し、弟のドクちゃんは右足だけで松葉杖をつきながら器用に廊下を走っていたが、兄のベトちゃんは寝たきりだった。

ベトちゃんはその後、26歳で亡くなった。ドクちゃんは元気に育ち、25歳で結婚して2人の子に恵まれた。日本への恩義から、子どもにはそれぞれ富士と桜にちなんだ名前を付けたというニュースにほほえんだ人も多いだろう。

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ベトナム政府は最近、8月10日を「枯葉剤の日」にした。ベトナム戦争が最盛期だった1969年のこの日、米軍が当時の南ベトナムのコンツムのジャングルに初めて枯葉剤をまいたからだ。

今年のこの日、ホーチミン市では1万人の市民が枯葉剤に抗議するデモ行進を行った。米国はいまだに枯葉剤の法的責任を明確にせず、被害者へのきちんとした補償をしていないからだ。市内の博物館では、日本の写真家、中村悟郎さんが撮影した枯葉剤の被害を示す写真展が行われた。中村さんの写真を焼き付けた陶板が博物館の壁に展示された。こんな非人道的な兵器が使われたことが忘れられてはならない、という意味を込めて。

枯葉剤はベトナムの人々だけではない。ベトナムで戦った米兵とその子どもにも被害を及ぼした。ベトナム戦争帰りの兵士の中に枯葉剤被害者の会ができ、米国政府に補償を求めて裁判を起こした。この結果、米政府は責任を認め、彼らへの補償をするようになった。自国の国民には補償しても、ベトナム人には補償しないのだ。アメリカ人以外は人間と思っていないのだろうか。

戦争が終わっても人を傷つける武器に対人地雷がある。戦争中に地面に埋められた地雷は、どこにあるかわからない。戦争が終わってもそのまま地中に残る。中米エルサルバドルでは内戦が終わったあと、生まれ故郷の村に帰ってきた難民やその子どもたちが次々に地雷のために亡くなったり傷ついたりした。これを見て心を痛めた米国女性ジョディ・ウィリアムズさんは、対人地雷をなくす運動を始めた。彼女の訴えがインターネットに乗って世界に広がり、各国政府を動かし、ついに1996年にカナダで対人地雷禁止国際条約が誕生した。一人の声が武器をなくしたのだ。

その動きは次に劣化ウラン弾をなくすことを標的とし、さらにはクラスター爆弾をなくそうという国際的な市民運動に連なっていく。軍縮は何も政府レベルだけで行うものではない。市民のレベルで進むのだ。

戦争が終わっても人を傷つける武器の最たるものが原爆だ。広島、長崎の被爆者の二世、三世は生涯、原爆を背負って生きる。その日本ならばこそ、「非道な武器」をなくす運動はもっと広がっていいのではないか。


著者紹介:
伊藤 千尋(いとう・ちひろ)
朝日新聞ロサンゼルス支局長、月刊誌「論座」編集委員を経て、現在「be」編集委員。著書に『活憲の時代─コスタリカから9条へ』ほか多数がある。

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