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尖閣諸島の問題は、こうして解決できる

「あけぼの」2011年1月号より) 伊藤千尋


尖閣諸島をめぐって、中国との間に領土紛争が騒がしい。領土となればがぜん国民が愛国心に燃えるのが歴史の常だ。国内では「打倒中国」の叫びが起こり、中国では日本の国旗が燃やされた。しかし、感情的になれば問題はこじれるばかりだ。冷静になれば解決への糸口が見えてくる。なぜこの期間にこんな問題が起きたのかを知ることこそ、解決への第一歩だ。

今回の問題の震源地は、中国の政府や軍ではない。民間の漁船が日本の巡視船に衝突して船長が逮捕されたことが発端だった。事件が起きたのは9月7日である。実は、毎年9月になると、中国側からこうした挑発のような行為が起きるのだ。それは1931年の9月18日に満州事変が起き、日中15年戦争が開始したからである。満鉄の線路を爆破した日本の関東軍の謀略をきっかけに大がかりな戦争となり、中国は大きな被害を受けた。

瀋陽(旧奉天)には「9.18歴史博物館」があり、生体解剖をした「731部隊」や3,000人の住民を虐殺した平頂山虐殺事件など、当時の日本軍の虐殺行為について展示している。だから毎年9月になると中国の人々は過去を思い起こし、日本に対して厳しくなる。さらに10月1日は中華人民共和国の建国を祝う国慶節だ。9月から10月にかけては中国政府としても「国家の威信」を強調する必要に駆られるのだ。

では今回、中国はなぜかつてないほどの対日強硬姿勢を貫いたのか。それは中国が経済発展した結果、経済的に豊かになった人々が政治的な発言力を求め始めたからである。

中華人民共和国が発足したが1949年。直後の50年代は毛沢東の指導下で「大躍進」など華々しい名前の政策が続いたが、実態は多くの餓死者を出し経済的には遅れたままだった。晩年の毛沢東が自らの失敗を糊塗(こと)するように起こしたのが文化大革命である。

毛沢東の死後、78年から鄧小平の時代は入り市場経済を導入した。だが、すぐにはうまく移行せず、80年代の中国では中国が地球から除籍されるという「球籍討論」が渦巻いた。中国が最も自信をなくしたのがこの時期だ。

しかし、90年代になると経済政策転換の効果が現れた。92年から毎年、13%もの高度成長を達成する。このため2003年には人口の19%、2億人もの人々が、かつての貧困層から中間層に上がった。

経済的に余裕が出た人間は政治的な自由を求める。この結果、反政府デモが国内で頻発するようになった。さらに警官が出てくれば逃げていた市民が、警官に立ち向かうようになった。暴動に発展することを恐れた政府は、市民のデモを正面から鎮圧しないように、と警察に通達を出したほどである。

一党独裁の政府の下、官僚の腐敗など国民の不満は強い。とはいえ今は政府の指導で経済発展が続いているし、逮捕されたくもない。だから国内政策への反発は表沙汰になりにくい。その分が外国、とりわけ日本への反発となって噴出した。政府も反日運動をちょうどいいガス抜きとして利用しているかのようだ。民族主義で運動が予想以上に大規模になっても、警察は取り締まれないのが実情である。

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領土問題でもう一つ、欠かせない事実がある。それは、中国の長年の懸案だったロシアとの領土問題が2004年にすべて解決したことだ。

中国で領土紛争といえば、過去には対ソ連問題を指した。旧ソ連との間で、黒竜江(アムール川)をはさんで25か所もの領土問題があった。支流のウスリー川の中州にある珍宝島(ダマンスキー島)をめぐって1969年には中ソ間の武力衝突に発展した。以後、この両国は激しく対立した。しかし、それを20年の歳月をかけて粘り強く交渉した。一か所ずつ解決し、最後まで残った3か所も合意した。

どうやって難問を解決したのか。それを知れば、尖閣諸島の問題を解決するヒントになる。中ソ領土問題を解決した精神は2つだ。ウイン・ウインとフィフティ・フィフティの原則である。「双方とも勝った」と言え、「両方とも五分五分」という認識を両方が持てる解決だ。たとえば、一番の争点だった珍宝島では島の真ん中に国境線を引いた。また、新たに中国領となった地域でも、昔から住んでいたロシア人には、その後も土地の権利を認めた。

領土問題は双方にそれなりの主張があるものだ。かつては武力の強いほうが戦争に持ち込んだ。今はそれを平和に裁くための国際法や国際裁判所がある。両者が歴史的な経緯や主張の根拠などを発展し、国際法に照らしてどちらに分があるかを判断することで裁決が下る。

だが、本来は当事者同士の話し合いで解決するのが、外交というものだ。民間の土地の境界問題でも、わざわざ裁判の場に持ち込むより、隣り合った家の話し合いで解決するに越したことはないだろう。

国際法といえば明治5年にマリア=ルス号事件という事件があった。南米ペルーの軍艦マリア=ルス号が中国の上海に来て、苦力(クーリー)と呼ばれた貧しい中国人労働者を拉致してペルーに強制連行しようとした。奴隷として農場で働かせようとしたのだ。その船が嵐のため横浜港に避難したさい、中国人2人が海に飛び込んで日本政府に助けを求めた。明治政府は人権擁護の観点から、拉致された全員を解放した。

ペルー政府は文句をつけたが、日本政府は国際法に照らして主張し、これがもとで国際社会にデビューしたばかりの日本の正しさと存在が認められた。毅然とした外交とは、前原外相のように自分の主張を強硬に言うのではなく、国際標準にのっとっていることを示すことである。


著者紹介:
伊藤 千尋(いとう・ちひろ)
朝日新聞ロサンゼルス支局長、月刊誌「論座」編集委員を経て、現在「be」編集委員。著書に『活憲の時代─コスタリカから9条へ』ほか多数がある。

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