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活憲とヒューマンライツ(人権)

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ルーマニアのゆで卵 表現の自由と異文化

「あけぼの」2015年 3月号) 伊藤千尋


幼いころ近所の子どもたちと遊んでいると、腕白小僧が弱い者をからかう場面がしばしばあった。いじめっ子は汚い言葉で相手をからかう。いまだに覚えている文句が「おまえのカーチャン、で〜べ〜そ」だ。

もし面と向かってこう言われたら、相手がどんなに強いやつでも黙っちゃいないぞ、と私は幼心に思っていた。自分がからかわれるのは我慢できても、親への侮辱は許せなかった。

人は、自分が頼り信じる者をけなされたとき、相手からみれば異様なほど反発するものだ。

フランスが荒れている。

パリの週刊紙がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を載せると、イスラム教徒の過激派が新聞社を襲い、風刺画家ら多数を射殺した。世論は「表現の自由」の圧殺ととらえ、自由を守ろうと200万人の市民がフランス全土でデモをした。

一方で、イスラム教徒たちは「表現の自由の悪用だ。私たちの感情を傷つける行為だ」と反発した。事件のあと普通のイスラム教徒も過激派ではないかと疑われ、肩身の狭い生活を強いられている。

この週刊紙は次の号でムハンマドの風刺画を満載し火に油を注いだ。武装組織は報復を予告し「悪の連鎖」を招いている。

テロは許せない。表現の自由は大切だ。報道の自由を守れという主張には共感する。だが、だからといってマスコミが何を言っても許されるはずがない。他人を侮辱する行為は相手の人間の尊厳を踏みにじり、それゆえに基本的人権を侵す。

自分ではユーモアのつもりで発言しても、相手が怒ることがある。ユーモアか悪口か、判定する権利は被害者にある。

「神の名をかたって行われる悲惨な暴力は正当化できない」「表現の自由は基本的人権だが、あなた方の一人が私の母をののしったら、パンチがお見舞いされるだろう。他人の宗教をバカにする人にも同じことが起きる。他の人の信仰を侮辱したり、もてあそんだりしてはならない」

パンチをするしぐさをしながらこう語ったのは、フランシスコ教皇である。その通りだと思う。教皇のパンチを一度、見たいものだが、それはさておき。だれかを傷つけるなら、その行為は崇高な「表現の自由」ではなく、下劣な「虐(いじ)め」だ。

風刺は世界中にある。日本でも庶民に「表現の自由」がなかった江戸時代、幕府の厳しい統制に対して人々は落書きや狂歌などで政策を揶揄(やゆ)した。

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軍事独裁下の南米チリの週刊誌には表紙に風刺画があった。車に乗った独裁者ピノチェト将軍に運転手が「パロ? 将軍」と聞く。将軍は「なに?」と怒る。パロはスペイン語で「止まる」と「ストライキ」の二つの意味がある。運転手は単純に車を止めようかと言ったのだが、過敏になっていた将軍は民主化運動のストライキと誤解したのだ。

韓国では軍政に弾圧された言論人が発行した「ハンギョレ新聞」の風刺画が受けた。その創刊号に掲げたのは「非民主(暴力、独裁、外政依存)」と書いた鎧をまとうゴリアテに立ち向かうダビデの絵だ。ダビデの背に「ハンギョレ」と書いてある。

このように虐げられた者が権力者に示す抵抗の手段が本来の風刺画だ。今回の事件では逆に優位な者が下位の人々を見下した感じがする。テロの犯人は旧植民地アルジェリアからの移民の子だった。フランス国籍を持っているがいまだに社会に溶け込めない。彼らにとって風刺画の掲載は、傲慢な支配層から挑発されたように思えたのだろう。

異なる宗教だけではない。異文化と出合ったときにどんな対応をするかで、相手との関係は良くも悪くもなる。

東欧ルーマニアで流浪のロマ民族を調査したとき、農村地帯でイオンさんという農民の家に泊めてもらった。翌朝、朝食に出てきたのはゆで卵だ。殻を手でむきながらふと顔を上げると、イオンさんが目を丸くしている。彼は叫んだ。

「日本人がなぜ手先が器用なのか不思議に思っていた。今、わかった。小さいときから毎日ゆで卵を手でむいているからだ。日本人はすごい」

では、イオンさんはどうやってゆで卵を食べたのか。彼は手のひらに卵を置き、殻のままナイフで真二つに切った。卵と殻の間にナイフを入れ、クルッとひねると簡単に卵は殻からとれた。私は言った。

「道具を使って素早くきれいに卵を取り出すなんて、ルーマニア人はすごい」

相手の文化や習慣をまず尊重し、良い点をお互いにほめあう。それが異文化と出合ったときの相互理解の原則だ、とそのとき気づいた。

逆に、「手を使わず道具に頼る、この横着者め」「道具を使わない、この野蛮人め」という否定的な受け取り方だってできたはずだ。それは相手を傷つけ無用な衝突を招く。相手には相手の歴史と論理がある。

まずは謙虚に相互理解しようと努めることだ。それが争いのない平和な社会をもたらす。


著者紹介:
伊藤 千尋(いとう・ちひろ)
朝日新聞ロサンゼルス支局長、月刊誌「論座」編集委員を経て、現在「be」編集委員。著書に『活憲の時代─コスタリカから9条へ』ほか多数がある。

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