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会津若松 鶴ヶ城

鶴ヶ城 蒲生氏郷
鶴ヶ城 蒲生氏郷

会津若松城は、「鶴ヶ城」の名称で親しまれています。
 この城は、南北朝時代の1384年(至徳元)に芦名直盛によって築城されたといわれます。

 1589(天正17)年、芦名氏を滅ぼした伊達政宗が居城となり、その翌年、豊臣秀吉による「奥州仕置」により、カトリック大名レオ蒲生氏郷が入国しました。

鶴ヶ城内にある地図
鶴ヶ城内にある地図

1592(文禄元)年、会津に入った氏郷は城の改修に着手しました。野面積みの天守台を築き、七重の天守閣を建て、城の名を「鶴ヶ城」と改めました。また、町割りを整備して、郷里である近江国蒲生郷の「若松の森」にちなんで黒川から若松と改称しました。

 文武両道に秀でた氏郷は36歳の若さで会津の領主となり、仙台の伊達政宗や山形の最上義光などを抑える要の役割を果たしましたが、1595(文禄4)年、40歳でこの世を去りました。

興徳寺 蒲生氏郷の墓
興徳寺 蒲生氏郷の墓

氏郷の没後、幼少の嫡男秀行は下野宇都宮に転封され、変わって上杉景勝が会津に入りました。
 景勝は徳川家康との対決に備えて、神指ヶ原に新たな城を築きはじめましたが、関が原の合戦の翌年、羽前米沢に転封されました。

 徳川の娘を妻とした氏郷の子・蒲生秀行が関ヶ原の戦いの功績によって、1611(慶長16)年に会津に入りましたが、大地震や干ばつに悩まされ、若くして亡くなりました。後を継いだ忠郷も25歳で亡くなり、1627(寛永4)年に伊予松山城から加藤嘉明が鶴ヶ城へ入城しまし。
 加藤嘉明と入れ替わりに、伊予松山城に入った忠郷の弟の忠知も30歳で亡くなり、信長と家康の血を引く名族蒲生氏は断絶しました。

 その後加藤家騒動による明成による領地返上によって、2代将軍徳川秀忠の子・名君保科正之が羽前山形より転封され、正之は幼い4代将軍家綱の後見となり大きな功績をあげ、の正容の代に松平の姓を賜り、徳川親藩となりました。

 会津松平藩は、9代容保が京都守護職を任じられ、京都の治安維持に努め、公武合体に奔走しました。 しかし「戊辰戦争」で朝敵の筆頭として新政府軍の標的とされ、若松城下への突入となり、1カ月に及ぶ篭城戦の後開城しました。
 会津松平家は、断絶は逃れましたが、1871(明治4)年廃藩となりました。


  • 住所:〒965-0873 福島県会津若松市追手町1-1
  • アクセス:会津若松駅から周遊バス「はいからさん」または、
          路線バス「鶴ヶ城まわり」で「鶴ヶ城北口」下車
  • 開城時間:8:30~17:00 (入城締め切りは16:30まで)
  • 料金:大人(高校生以上) 400円、子ども 150円
        麟閣(茶室)共通入場券 500円
  • ・休館日:無休

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