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ディオゴ結城了雪神父


平島館跡
平島館跡

戦国時代末期、室町幕府の11代将軍・足利義澄(よしずみ)の次男・義維(よしつな 義冬)は、政権争いの結果、細川之持(ゆきもち)に庇護の元、阿波国に移り住みました。

1574(天正2)年、その家臣・結城秀義の三男として良悟が生まれました。
 結城秀義には、6人の子がありました。長男は光義(結城市丞)で、秀吉の挑戦侵略の際に加藤清正の配下で戦死しました。長女は公家水無瀬(みなせ)中納言兼成(かねなり)と、次女は星坂家に嫁ぎました。次男・秀景は、富永兵庫とも呼ばれ、1616(元和2)年に受洗し、如庵というキリシタン名を持ち、信仰のために国払いされました。

 三男・朝能(結城喜太郎)は、1636(寛永13)年以降は、不慶伴天連、または伴天連れうことも呼ばれた結城了雪(良悟)です。「れうこ」とは、霊名「ディオゴ(Diogo)」のことで、当時この霊名を「レウコ」と書いた名簿が見つかっています。

 三女は、祐賀(ゆうが)は、水無瀬兼成と姉の養女となり、平島公方義種に嫁ぎました。祐賀は、1646(正保3)年にキリシタンとして告訴され、息子と孫に預けられました。告訴され大坂の奉行の前で兄である伴天連れうこについて話したことが、ディオゴ結城了雪神父を知る貴重な資料となっています。

ディオゴ結城了雪神父 系図
ディオゴ結城了雪神父 系図

12歳のディオゴは、1586(天正14)年に安土から大坂に移されたセミナリオに入りましたが、その後秀吉の禁教令によって、宣教師たちとともに有馬の八良尾のセミナリオに移りました。ここで、ディオゴは、ジュリアン中浦と出会いました。
 セミナリオは、その後有馬、八良尾、有家と移されました。

 ディオゴは、天草の河内浦にあった修練院に送られ、そこで1596(文禄5)年、イエズス会に入会しました。22歳になっていました。
 ディオゴは、1601(慶長6)年、神学の勉強のためにマンショ伊東やジュリアン中浦とともにマカオに送られました。

帰国後、1607年にミヤコの教会に派遣されたディオゴは、阿波に宣教に行き、阿波藩主であった蜂須賀家政や、祐賀と結婚した足利義種(よしかず)も話しました。1612(慶長17)年、ディオゴは、有馬のセミナリオでラテン語の教師となりました。

翌年、ディオゴはセルケイラ司教によって副助祭に叙階され、司祭への門が開かれたかに思えましたが、司教の死と、徳川家康の禁教令によってその道は閉ざされました。

1614(慶長19)年11月、ディオゴは高山右近やミヤコの比丘尼らとともにマニラに追放されました。
 翌1615(慶長20)年2月4日、高山右近は追放の旅の困苦から亡くなりました。

苦難の中でも司祭のための勉強を続けたディオゴは、その年の7月18日、マルティノ式見とともに司祭に叙階されました。

1616(元和2)年、ディオゴは2人のイルマンとともに長崎にひそかに戻りました。ディオゴは、20年余りの潜伏司祭としての使徒職をはじめることになりました。その任地はミヤコでした。

ミヤコに上る前に、ディオゴは兄・兵庫と妹の祐賀とその息子と娘に洗礼を授けました。
 ディオゴの宣教は、京都、大坂を拠点としながら、五機内、四国、江戸、遠くは津軽にまでおよびました。

1619年10月6日の京都の大殉教のときには、ベルト・フェルナンデス神父と同宿ミカエル草庵とともに、殉教者たちを励まし、その遺体を安全な場所に埋葬し、殉教の記録を書き残しました。遺体が葬られた場所は、現在わかっていません。

フェルナンデス神父が長崎に移り、ミヤコの司祭はディオゴ1人となりました。ディオゴの宣教活動は、北日本から金沢にまで広がり、宣教師や信者たちについて報告する手紙を書いています。

大坂口御番所跡
大坂口御番所跡

五機内や四国でのディオゴの活動の便りが長崎にも届いたのか、長崎奉行・榊原飛騨守は役人を連れて讃岐に渡りました。

平島公方の家臣であった荒井門内は、公方の地位を守るため、また自らの利益のためにディオゴを捕らえるためのあらゆる手段を考え働きました。

長崎の奉行が帰った後、探索者たちは祐賀の娘とその夫・豊嶋を捕らえ、祐賀の娘は自分たちの命と自由を守るために、ディオゴの居場所を話しました。生駒壱岐守の家老たちによって、「讃岐と阿波の境目の山中で」(大坂峠)ディオゴは捕らえられました。

1636(寛永13)年2月25日、ディオゴは大坂で穴吊りの刑によって殉教しました。そのときも忠実な同宿ミカエル草庵がディオゴの傍らにいました。ディオゴは、彼をイエズス会に受け入れることはできませんでした。

殉教に立ち会うために長崎奉行から遣わされた九郎兵衛という役人は、次のようにディオゴの言葉を報告しています。
 「自分は山中に隠れ住んで宿る場所もなく、食べ物は自然の中から得ていた」と。

「他の人たちのために生きた」ディオゴ結城了雪神父は、殉教のとき62歳でした。



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