home > 時・歴史 > 日本キリシタン物語 > 8.平戸の天門寺

日本キリシタン物語

バックナンバー

8.平戸の天門寺

結城 了悟(イエズス会 司祭)

平戸殉教者慰霊塔
平戸殉教者慰霊塔

横瀬浦の愛らしい「御助けの聖母」教会が炎の中で消えた時、平戸に最初の教会が建てられるための道が開かれた。
 1563年11月、横瀬にいた宣教師たちは別れて、安全な拠り所に向かった。イルマン・ジョアン・フェルナンデスと日本に着いたばかりの*1ルイス・フロイス神父は平戸に渡り、そこから籠手田家の知行であった度島に住みついた。

1559年にはビレラ神父の不賢明な宣教の結果として、松浦隆信が宣教師を追い出し、教会として使用していた建物を破壊した。しかし宣教をあきらめるとはなかった。1561年、イルマン・アルメイダは7月の初めから8月の終わりごろまで平戸で活躍し、西海岸のすべてのキリシタンがいる村や生月と度島を訪れた。また、1562年11月横瀬から平戸を訪れて彼が戻った時、トーレス神父とイルマン・フェルナンデスは平戸に行き2カ月の間宣教を続けた。

フェルナンデスとフロイスは、1563年から64年の冬までを度島で過ごした。それは試みの時であった。火災がおこり宣教師の家と村の一部が灰となった。1カ月後には、平戸の荷物などが納められていた家も焼かれた。
春になると雰囲気が変わった。ご復活の祝い日をあの美しい島で喜びの中に祝った後、宣教師は平戸に移り、フロイスは迎えに行ったイルマン・アルメイダと一緒に五畿内に向かった。

ペドロ・デ・アルメイダのポルトガル船が、夏に平戸に入港した。その船で*2バルタサル・ダ・コスタ神父が着き、同じころ*3イルマン・ゴンサルベスも平戸に渡った。ドン・ペドロ船長の協力もあって松浦隆信は教会を建てるための許可を与えた。フェルナンデスは建築の係りでもあり、誇らしげにその結果をほめていた。

平戸教会 脇祭壇
平戸教会 脇祭壇

教会は平戸港を見下ろす丘の麓にあって無原罪の聖母にささげられていたが、フェルナンデスは同時に天門寺という日本名をつけた。1564年の夏から1567年の夏まで天門寺は、フェルナンデスの平戸の宣教の中心地となった。
 そこで彼は、一日中信者と求道者に教理を説明しながら祈りをもってその教会の発展を支えていた。ときには港町から宣教の旅に出ていった。体力が次第に衰えるが、フェルナンデスは自分の師であったザビエルと同じように一生涯を神の御言葉に奉献していた。

平戸から送った2通の手紙によって、私たちは、彼の活躍と平戸の信者に対する深い愛情を知ることができる。1567年6月の初めごろ、ついに病にたおれ、病状は次第に悪化していった。平戸の主だった信者ドン・アントニオ籠手田、ドン・ジョアン一部、他が病人の布団を囲むと、彼は日本語で皆に神のことを話し、最後まで祈りを唱えていた。そしてついに、同月26日、静かに霊魂を神に返した。行年41歳であった。ザビエルやトーレスと共に日本に上陸してからすでに18年の歳月が流れていた。初めにザビエルの通訳をし、後でトーレスの一番の助けとなった。新任の宣教師が日本に着くと彼らの前に道を開き、ついに自分が愛した平戸でその土となったのである。平戸の教会が迫害に耐えて残るためであったにちがいない。


注釈:

*1 ルイス・フロイス神父[1532-1597]
 イエズス会司祭。
 ポルトガルのリスボンに生まれる。
 1548年にイエズス会入会し、インドに行き、1561年ゴアで司祭叙階。
 ゴアで学院長や管区長の秘書として文才を評価される。1563年に来日し、翌年入京する。織田信長に厚遇された。1576年に豊後に移る。
 総長の命によって編さんした『日本史』は、戦国末期から安土桃山時代の社会・文化・地方史研究において高く評価されている。
 1597年、長崎の修道院で死去。
*注2 バルタサル・ダ・コスタ神父[1575/76-1633.10.8]
 イエズス会司祭。
 ポルトガルのリスボンに生まれる。
 1591年、イエズス会に入会。神学校在学中にアジアに向かう。
 1604年に来日。有馬セミナリオで日本語を学んだ後、広島、諫早で司牧。1614年に他の宣教師と共にマカオに追放された。
 一時中国の宣教のために働いたが、再度日本に潜入し、主に近畿地方で働いた。
 1633年9月24日周防で逮捕され、長崎に連行され、逆吊しの刑により殉教。
*注3 イルマン・ゴンサルベス[生没年不詳]
 イエズス会士。
 ポルトガルのブラー出身。
 日本のセミナリオで学んだ後、1602年にイエズス会に入会。1605年に倫理学の勉学のためにマカオに行き、1608年に日本に戻った。
 1613年には助祭となっており、その後司祭に叙階されたものと思われる。1614年の追放によりマニラに移り、コレジオで働いた。
 1624年11月にコーチに向かい、12月に到着したが、その後の消息はわからない。

NEXT

▲ページのトップへ