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17.関白豊臣秀吉の禁教令

結城 了悟(イエズス会 司祭)

ステンドグラス

1587年7月25日の夜明けごろ、箱崎八幡宮で豊臣秀吉はすべての宣教師が日本を出国するように命令を下した。姪浜にいた*1ガスパル・コエリヨ神父にその命令が伝えられたとき、彼のいろいろの夢が消えた。前日まで友人として振る舞っていた秀吉が、どうして今、突然敵になったのであろうか。確かに秀吉は織田信長の家来としていつも好意的であったし、信長の死後政権を握ってからも大坂城の近くに教会を建てるため立派な土地を与え、河内岡山にあった教会をそこに移すことを許した。高槻城に宿を設けた安土セミナリヨも大坂で開かれることを頼み、数ヶ月前に自分自身も大坂城で親切にコエリヨ神父たちを案内した。なぜ、今、突然その追放令が出されたのであろうか。

突然であったかどうかは別にして、その追放令によって信長の保護のもとに進んでいた教会の発展が急に止められた。ローマ帝国ではネロ皇帝の言葉「キリスト信者になってはいけない」という命令と同じように、秀吉の追放令が、続くすべての迫害に門を開き、300年程の間に何千人もの日本人キリシタンの血が流されることのきっかけとなり、1889年の明治憲法まで、教会の法的な存在を奪った。おそらく秀吉は、あの夜の決定が鎖国にまで導くとは想像しなかったであろう。彼の目的はもっと個人的なことであったようである。教会が小さな団体にすぎなかったころは問題外であったが、その数が増え始めたとき信長の時代に加賀で起きた仏教徒の争いを思い出し心配になってきた。コエリヨ神父の不確かな発言も影響があった。

聖水入れ

五畿内で信者になった大名や城主は若いときから彼の仲間であったが、九州に行ったとき一つの発見をした。そこにも有力なキリシタン大名がいて、信仰の結びつきによって五畿内の大名と手を組んだ。信長の息子たちから巧く権利を奪った秀吉にとって、それは危ないことであった。従って追放令を発布すると同時にキリシタン大名に信仰をやめるように圧力をかけ、3年後九州のキリシタン大名たちを朝鮮に軍隊とともに遣わした。1586年大坂城でコエリヨ神父と話したとき、この最後のことについてある程度まで示唆したのである。

宣教師たちはすぐ日本を出なかった。教会を閉鎖し衣服を着替え、静かに有馬、天草などで信者の世話を続けた。その当時処刑される人はいなかった。秀吉は長崎を大村領と宣教師の手から離して天領にした。このようにしてポルトガル貿易の多大な利益の一部を自分の懐に導くことであって、その状態を守るため長崎ではポルトガル人のため一つの教会が許された。数年後の1591年には、その教会にいる神父の数も増えた。簡潔に言えば、教会が大きくなって秀吉の計画に妨げになったので、不幸な関白秀次と千利休と同じように処理された。

もう一つの疑問が残る。どうして宣教師たちが追放令に背いて出なかったのであろうか。当時この問題については、宣教師たちの意見が一致していた。自分たちだけのことであれば一時的に出国して、情勢が変わってから再入国することができるであろうが、自分たちの手によって育てられた信者を見捨てることができなかった。


注釈:

*1 ガスパル・コエリヨ神父[1530ごろ-1590.5.7]
 イエズス会司祭。イエズス会初代日本管区長。
 ポルトガルに生まれる。1556年、ゴアでイエズス会に入会。同地で神学の勉強を続け、1560ごろに司祭叙階。その後、インド各地で働いた。
 1571年マカオに渡り、翌年来日。間もなく下(しも)地区の上長に任命され、大村を中心に働く。1581年日本のイエズス会が準管区に昇格した際に、初代日本管区長となる。加津佐で死去するまで、その任にあった。

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