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20. 26聖人(3) 祭壇になった西坂の丘

結城 了悟(イエズス会 司祭)

サン・ラザロ病院跡
サン・ラザロ病院跡

1597年2月5日(慶長元年12月19日)、殉教者の列が浦上のサン・ラザロ病院の前に止まった。この病院はイエズス会が経営していて、浦上街道の脇、現在の山王神社の巨大な楠の木の近くにあった。一般の罪人の刑場から十字架が移される間、しばしの休息が与えられた。心の憩のときでもあった。

その病院の小聖堂で*1ディエゴ喜斎と*2ヨハネ五島はイエズス会員として初誓願を立て、パウロ三木も新たにその誓願を立てた。その以前に3人はパシオ神父に告白し、外にいた他の殉教者はフランシスコ会の司祭あるいはロドリゲス神父から同じくゆるしの秘跡を受けた。

そこから3組に分かれて、ロザリオの祈りを唱えながら西坂まで行った。西坂に入ると彼らの目の前に長崎湾が広がり、その静かな水面にポルトガル船「サン・アントニオ号」が浮かんでいた。左方の上町にはミゼリコルディアの組が経営していたもう1つのサン・ラザロ病院が見える。立山の繁み裾の方に2、3千人程の信者が集まっていた。

殉教者たちは殉教地に入ると指示された十字架のもとに静かに行き、その傍に跪いた。長く憧れた出合いであった。すでに準備が整っていたので、執行人は早く仕事を済ませることができた。殉教者たちは十字架に縛られ、用意されていた穴に十字架が立てられ、26本が全部一列に並べられた。そのとき群衆から叫びが湧きあがったが、すぐに消えた。

長崎・西坂 日本26聖人像
長崎・西坂 日本26聖人像

十字架上から殉教者たちは「すべての国民よ、神をほめ讃えよ」と歌い始めた。聖書の詩編で、その歌は賛美歌であり、唯一神の宣教であり、心からの感謝でもあった。歌声が消えたとき、1人の男の張りのよい声が聞こえた。パウロ三木は最後まで自分の使命を果たしていた。牢屋でも、見せしめのため京都で引きまわされたときでも、大坂から長崎までの長い道でも毎日説教していた。今度は豊臣秀吉の死刑の宣告文を訂正して、自分の心の宣言を述べる。「私はルソン(マニラ)から来た者ではありません。私は日本人です。また、イエズス会員で、私が死ぬのはキリストの教えを述べたからです。その教えに従って太閤様と役人様を心から赦します」。仇を討ち、敵を殺すことを崇めていた社会の中で、パウロ三木は赦しを与えて平和と愛を教える。イエスの模範に従って、長い十字架の道の終わりには、その言葉がイエスの最後の言葉を考えさせる。「父よ彼らを赦してください」。

他の殉教者も心を開いて高い声で祈っていた。*3ルドビコ茨木の声が皆の心を打った。「パライソ(天国)イエス、マリア」。4人の執行人が左右2人ずつに分かれて寺沢の合図に従い、槍で殉教者の胸を刺して行く。殉教者の声が次第に消えるとともに群衆の叫び声が強くなった。昼頃すべてが終わった。町へ帰って丘の階段を下りて行く寺沢半三郎の目には涙があったと記されている。年老いたルイス・フロイスはコレジヨの窓からあの十字架の列を眺めたとき、そこで見た縛られた26人の姿を次のように記録し説明している。「あたかも皆長崎の町を祝福しているようであった」。

その日の夕方、マルティンス司教をはじめ他の宣教師や信者たちも、殉教者たちの十字架のもとへ祈りに行った。今年はあの日から407年たったにも関わらず、26聖人によって開かれた「長崎への道」をたくさんの人が歩いている。


注釈:

*1 ディエゴ喜斎[1533ごろ-1597.2.5]
 日本26聖人の1人。備前出身。64歳で、26聖人の中で最年長であった。
 「喜斎」は名前ではなく「斎名」であった。書道や茶道を心得ていたことから、武士の家系の人であろうと考えられる。
 妻と子がいたが、妻は信仰を捨て、ディエゴからも離れた。彼は晩年、イエズス会の同宿として働いた。
 1596年12月9日、大坂にあったイエズス会の修道院で捕らえられた。
*2 ヨハネ五島[1578-1597.2.5]
 日本26聖人の1人。五島出身。
 幼少時代に家族と共に長崎に移り住み、セミナリオに入る。1591年、志岐のセミナリオで美術を学び、1594年に大坂に行き、同宿として活動する。
 1596年12月9日、パウロ三木と共に捕らえられた。
*3 ルドビコ茨木[1585-1597.2.5]
 日本26聖人の1人で、最も若い殉教者。尾張出身。
 同じ殉教者の、レオ烏丸とパウロ茨木の甥。1596年、京都のフランシスコ会の教会で受洗。教会とその付属の病院で手伝いをしていた。
 1596年12月9日、捕らえられた。

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