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23.元和大殉教

結城 了悟(イエズス会 司祭)

大殉教絵図(ジェズ教会)
大殉教絵図(ジェズ教会)

1622年9月10日、長崎の殉教地西坂が忘れがたい場面を現していた。  ローマのジェス教会に保存されている1人の南蛮絵師が描いた絵は、細部に至るまで歴史的にも完璧である。しかし、祈りと殉教者の心を伝えたいとの思いで描かれたため、その殉教の恐ろしさを十分に見せてはいない。

殉教地の一番高い所には、火あぶりによって殺される宣教師たちが並んでいる。その中には、日本人として最初の司祭であるイエズス会のセバスチャン木村と*1スピノラ神父、ドミニコ会の*2モラレスと*3オルファネル、フランシスコ会のペトロ・デ・アビラと*4リカルド、日見峠近くに隠遁生活をしていた5名のイエズス会の同宿などである。

そして、一番下には、血塗れの地面に首が切断された宣教師たちの宿主の遺体が散乱していた。その中には、数人の韓国人殉教者もいた。この殉教の序文のように数日前同地で、アウグスチノ会の*5ペトロ・デ・ズニガとドミニコ会の*6フロレス神父が、船長ディアス平山とその乗組員と一緒に処刑された。この大殉教の歴史は、その船の話から始まる。

マニラから鹿の革を積載して長崎に向かう平山船長の御朱印船が、平戸を基地にしていたイギリス、オランダ艦隊の一隻に拿捕(だほ)されて平戸に連行された。

積荷の隙間に身を隠していた二人のスペイン人が見つかった。役人たちは、彼らを潜伏宣教師だと思いオランダ人の牢屋に入れ、長崎奉行長谷川権六と江戸幕府に使いを出した。平戸で、長谷川権六と平戸の松浦隆信壱岐守の面前で二人の取り調べが行われた。二人の「スペイン人」は確かに宣教師であったが、この船乗りの命を救うために、鈴田の牢屋から呼ばれたスピノラとモラレスも、また捕らわれた人の1人ズニガを知っていた長谷川権六さえも、彼らが神父だとは言わなかった。  しかし、背教者トマス荒木が、ズニガの身分を話した。彼は別の牢に移されたが、オランダ人であったフロレスは平戸に残された。

日本に着いたばかりのドミニコ会の*7コリアド神父は、長崎にいた数人のスペイン人商人の頼みに応じて、信者の助けを得てフロレスを牢屋から自由にしようと試みた。しかし、助けることはできず、救いに行った信者までも捕らわれの身となった。さらに、彼らが持っていたこの計画と関わる手紙なども見つけられた。コリアド神父は、逃亡に成功し日本から離れたが、このことが将軍秀忠の耳に入り、彼は激怒して、捕らえられていた宣教師や信者を処刑するよう命令した。

また、コリアド神父を捜していた役人たちによって、平戸で活躍していたコンスタンソ神父とその伝道士も巻き込まれることになった。これらの殉教が将軍秀忠最後の迫害であった。  秀忠は翌年、徳川家光に将軍職を譲り引退した。圧迫されていた長崎の教会にとって、多くの宣教師とその協力者の死は大きな打撃であった。さらに奉行としてキリシタンに対し、厳しい姿勢をとらなかった長谷川権六は、江戸に呼ばれた。

聖母マリア像

私はここでひとつの短い話を記したい。この話は、すでに殉教したポルトガル人のドミンゴス・ジョージの妻の話である。イサベル・ジョージは、その4才の息子イグナチオと共に処刑されるため西坂に連れて来られたとき、すでに高い柱に縛られていたスピノラ神父を見て、子どもをスピノラの方に向け抱え上げて次のように言った。「我が子よ、あの人はあなたを神の子にした神父です」。

この殉教地で、血の洗礼の証(あかし)を前に、「水と聖霊による洗礼」について、すばらしい説明であったと言えるだろう。


注釈:

*1 スピノラ神父[1564-1622.9.10]
 殉教者。イタリアのジェノバの名門タッサロラ伯家に生まれる。
 伯父フィリッポ枢機卿邸から、イエズス会の学校に通い、1584年修練院に入り、1594年司祭叙階。ブラジルでの宣教を望み、まず西インド諸島で宣教活動を行う。
 1598年リスボンで誓願宣立後、マカオで働いた。
 1602年5月に来日。有馬で日本語を学んだ後、有家(肥前)で宣教。1605年京都に移る。クラヴィウス直伝の科学知識をもって小天文台を設けた。また1611年には、数学アカデミーを設けた。
 1612年の幕府の禁教令以降も、熱心に宣教を続け、長崎奉行・長谷川権六によって捕らえられ、大村に送られた。牢の内外で声高らかに主を賛美し、捕吏たちに説教を行った。1621年の平山常陳事件に際しては平戸に喚問されたが、オランダ人に情理を尽くした大弁論を行った。
 1622年9月9日、同牢者と共に時津に舟で移送され、翌日、長崎立山で火刑に処せられた。
*2 モラレス[1567.10.14-1622.9.10]
 日本205福者殉教者の1人。ドミニコ会士。
 スペインのマドリードに生まれる。
 若くしてドミニコ会に入り、バリャドリードで教育を受け、創立間もないドミニコ会ロザリオ管区に参加するため、1597年、マニラに向かった。マニラの聖ドミニコ修道院院長に任ぜられるが、翌年の1602年、日本におけるドミニコ会布教長として薩摩の甑島に渡来した。この島や京泊(薩摩)周辺の布教に従事した。
 1609年、キリシタン迫害のため長崎に赴いた。1614年11月、他の宣教師と共に日本を追放されたが、あらかじめ待機していたキリシタンの小舟で長崎に戻り、長崎代官・村山等安の長男にかくまわれる。
 1613年3月捕らえられ、壱岐の牢に入れられた。8月大村の牢に移され、長崎で殉教した。
*3 オルファネル[1578.11-1622.9.10]
 日本205福者殉教者の1人。ドミニコ会士。
 スペインのカステリョン・デ・ラ・プラーナ県ジャナに生まれる。
 1600年3月バルセロナで、ドミニコ会入会。翌年3月、誓願を宣立。
 メキシコ、フィリピンを経て、1607年6月来日。京泊や浜町(肥前)、長崎、大村、有馬、肥後、豊後で宣教活動を行った。1614年2月、臼杵で逮捕され、長崎に護送されるが、ひそかに脱出し、潜伏し、有馬、有家、口之津、筑後、豊前、日向、大村で活動した。1621年『日本キリシタン教会史』を大村で脱稿。同年4月、ドミニコ会新管区長代理選出のため長崎に向かう途中、逮捕された。大村の牢に入れられ、元和の大殉教で殉教した。
*4 リカルド(リカルド・デ・サンタナ)[1585-1622.9.10]
 日本205福者殉教者の1人。フランシスコ会司祭。
 ベルギーのハンス・ヘウルに生まれる。
 1604年、フランシスコ会に入会。翌年5月ローマに行き、アラチェリ修道院に入った。そこで、長崎での同会士6名の殉教(日本二十六聖人)のことを聞き、日本の宣教を望むようになった。スペインの聖ヨゼフ管区に移籍し、1609年多くの同志と共にマニラに赴いたが、メキシコに派遣され、同地で司祭に叙階された。数カ月後マニラに戻る。
 1612年、6名の同志と共に来日するが、1614年の追放令により日本を去った。1617年、再び来日し、九州で宣教活動にあたる。この時期、フランシスコ会で自由に活動できたのは、彼だけであった。1621年11月、長崎で病に倒れたとき、背教者の密告によって捕らえられ、長崎で火刑に処せられた。
*5 ペトロ・デ・ズニガ[生年不詳-1622.8.19]
 殉教者。アウグスチノ会士。
 スペインのセビリアに生まれる。
 メキシコ副王ピリャマンリケ侯爵の息子。
 1604年セビリアの修道院に入会。1610年フィリピンに渡った。1618年来日し、日本語を学び宣教活動を行った。1619年5月いったんマニラに戻り、1620年6月管区長代理として、ドミニコ会のフロレスと共に商人に変装して平山常陳の船に乗船した。途中、イギリスとオランダの連合艦隊に拿捕され、平戸に連行され、身分が発覚し、1622年、平山、フロレスと共に、火刑に処せられた。
*6 フロレス神父[生年不詳-1622.8.19]
 殉教者。ドミニコ会士。
 フランドル出身。
 1592年メキシコでドミニコ会に入会。1598年フィリピンに渡る。1606年聖パブロ修道院院長、1608年聖ビンセンテ修道院院長などを経て、カガヤン地区の管区長代理となる。
 1620年、迫害下の日本での宣教を志し、ズニガと共に平山常陳の船に乗船。途中、イギリスとオランダの連合艦隊に拿捕され、平戸に連行され、身分が発覚し、1622年、平山、ズニガと共に、火刑に処せられた。
*7 コリアド神父[1589ごろ-1641.8]
 ドミニコ会日本管区長代理(在任1621-1622年)。
 スペインのカーセレス県ミアハダス町に生まれる。
 1604年、サラマンカでドミニコ会に入会。1605年誓願宣立。1611年にマニラに渡り、カガヤン盆地の諸修道院院長を歴任。1619年7月に長崎に渡来。有馬、有家、郡(大村)、長与(大村)、長崎で宣教。1622年1月、平山常陳の船に乗船して捕らえられたフロレスたちの救出に失敗し、厳重な取り調べを受ける。「元和の大殉教」を目撃し、その体験を『日本キリシタン史』の『補遺』に記載した。

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