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日本キリシタン物語

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26.最後のキリシタン乙名の証

結城 了悟(イエズス会 司祭)

キリシタン墓石
キリシタン墓石

徳川家光による迫害が進んでいた。
 3つの大殉教によって京都、長崎、江戸の教会は大きな痛手を負った。島原半島の大名松倉重政は、完全に将軍の支配下にいた。しかし、長崎では信徒の組織がまだ残っていた。家光は貿易に損害が生じても、キリシタン宗門を根こそぎ取り除く自分の目的を果たすため、長崎に厳しい弾圧を加えるときがきたと考えた。その仕事を全うするため適任者を選び、キリシタンに対して甘いと思われた*1長谷川権六の代わりに、1626年には*2水野河内、1629年*3竹中采女正、そして1633年から2人の奉行による制度がはじまった。

水野河内は、詳しく報告を受けたあと道を決めた。1627年、残る宣教師たちを探しながら彼らの拠り所であった信者の2つの組に手をかけた。第1の組は「有馬の組」として知られていて、小西行長、高山右近と有馬晴信の家来を捕まえて牢に入れたが、彼らの強い信仰を知っていた水野は、彼らに殉教の栄誉を与えないため、日本から追放した。この人々はキリシタン史に名を残した人物であった。レオ小西は堺の日比谷了珪の孫で、ペント左太夫は高山右近の親戚であった。八代城の城代ビセンテ日比谷の息子ヤコベ小西、長崎のミゼリコルディアの組の創立者ジュステイノの息子などであった。その秋、家族とともに11名がマカオに追放された。牢屋、ためし、辛い旅の結果、マカオに着いて間もなく皆病死し、ミゼリコルディアの制服をまとい、サン・パウロのコレジヨの教会に葬られた。そこで、小西ヤコベは殉教者として数えられた。

踏み絵
踏み絵

2番目の組は、長崎の最初の乙名と町年寄*4後藤トメ宗印と*5ジョアン町田宗可とその息子と後継ぎペトロ町田、パウロ後藤とその家族であった。彼らは大切な務めを果たしていたのに、将軍の命令に背きキリシタンの信仰を公に守り続けたので、江戸で裁きを受けるように命令が下りた。しかし、長崎で特に優れた人物として知られていたので、警固なしに江戸に送られた。大坂と京都では商人たちから盛大な歓迎を受けたが、彼らは信仰のため追放されて行く身なので全てのもてなしを断った。江戸に着くと宣告されたように奉行所に出頭したが、裁かれる前に、準備していた嘆願書を将軍に提出した。その嘆願書には、長崎市民は織田信長のときから豊臣秀吉や将軍の祖父である徳川家康からも信仰の自由が与えられていたので、将軍にもその自由を願っていた。将軍から返事がなく、待っている間に、川の辺に作った小屋でトメ宗印が死亡した。ジョアン町田は、1632年奥州の二本松で殉教したそうである。あの嘆願書のことが広まり、米沢では殉教がはじまろうとしていたとき、大名定勝を止めようと家老の志田義秀は、長崎の乙名が嘆願したことを話した、と記されている。

この最後のキリシタン乙名の願いが現している気高い精神を、現代の小説家大佛次郎は、1868年に津和野などに流刑された浦上の信徒の態度にも見ていた。彼の言葉をここに引用したい。『浦上の農民が1人「人間」の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しく抵抗を貫いた点であった』。「権利と言う理念はまだ人々にない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身に当たるものであった」(天皇の世紀、第9)。


注釈:

*1 長谷川権六[生年不詳-1630]
 江戸最初の長崎奉行。前任者長崎代官の長谷川藤広の甥とされる。
 1609年に、本多正純の取り次ぎでルソン渡航の朱印状を下付されており、海外貿易にも関わった。藤広死後、1618年ごろに長崎奉行となり、海外貿易に熱心であった。また、ポルトガル、オランダ、イギリスの日本近海における抗争に介入し停止させるなどした。
 キリシタンに対しては、属託銀による宣教師の摘発と、特権的豪商層を改宗させ、教会組織を切り崩し、伝統的宗教の教化などを行った。しかし、1620年には、慈悲の組の聖堂や病院、墓地を破壊した。また、平山常陳事件では、厳しく事実を取り調べ、1622年8月、捕らえられたスガニ神父らを西坂で処刑し、9月にはそれまで大村牢に留置されていたスピノラ神父と55人のキリシタンたちを火刑に処した。
 1626年に長崎奉行を辞任した。
*2 水野河内(水野守信)[1577-1637.1.18]
 徳川家康に仕えた、江戸時代初期の旗本。河内守。半左衛門。
 1600年、上杉景勝討伐に従軍した。1626年に長崎奉行となり、キリシタン禁制に辣腕をふるった。捕らえたキリシタンを島原に送り、温泉責めによる拷問を加えた、宣教師や信徒、宿主たちの処刑を繰り返した。さらに、信仰の有無を確認する方法として絵踏を案出し、市中のキリシタン名簿を作成して将軍家光に提出した。1628年末か1629年はじめごろに、大坂の町奉行となり、1629年には堺奉行も兼ねた。1633年には大目付に昇進し、幕政の枢機に関与した。
*3 竹中采女正(竹中重次)[生年不詳-1634.3.21]
 江戸初期の長崎奉行。采女正、重義、重興。竹中重利の子。豊後府内で2万石を領した。
 外様大名であったが、長崎においてキリシタン禁制の徹底に努め、キリシタン根絶を意図した。水野河内が作成したキリシタン名簿から、信徒をことごとく調査検挙して棄教を強要した。従わない者には、雲仙で熱湯による責苦を加え、西坂では逆吊しによる拷問を加えた。また転宗者には絵踏と朝夕の2度の墓参を課した。
 中国船に関税を課したことと、賄賂政治を行ったこと、ルソンに自分が投資した貿易船を送ったなどの私曲を長崎代官末次平蔵らによって告発され、1633年に解職されて江戸に召喚された。
*4 後藤トメ宗印[生年不詳-1627.12.31]
 長崎頭人(とうにん)総代。キリシタン教書の出版者。武雄の後藤貴明の一族。惣太郎のち庄左衛門貞之。霊名はトメ。宗印と号した。
 1571年の長崎開港当時、すでに地頭、頭人であった。1592年には、頭人の1人として名護屋で秀吉に謁見している。長崎銀座十人衆の1人であった。また朱印船貿易にも従事していた。
 1600年、イエズス会から委託された邦文教書の印刷に従事した。『どちりなきりしたん』、『おらしよの翻訳』、『ひですの経』などが現存している。1621年の教皇に宛てた奉答文にも長崎信徒代表の1人として署名が残っている。1626年の迫害によって、家族と共に山間に逃れたが、捕らえられ牢死した。
*5 ジョアン町田宗可[生年不詳-1632.2.8]
 1632年2月8日、会津若松と二本松で火責めによって殉教した56名のキリシタンの1人。
 1618年3月21日付長崎発信のコーロス徴収文書の「町田宗加寿庵」と、1621年4月7日付教皇ウルバヌス8世への長崎信徒奉答文の「町田寿庵」の二者は同一人物であって、町年寄であったとされる。

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