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日本キリシタン物語

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28.原城にて・島原の乱

結城 了悟(イエズス会 司祭)

天草四郎時貞
天草四郎時貞

1636年の秋、出島の海岸から混血児を乗せたポルトガル船がマカオに向けて出港したとき、徳川家光と老中たちは安堵したに違いない。キリシタン宗門問題を解決するための、大きな前進だった。しかし、1年が経たないうちの1637年10月、口之津では大きな火種となった火花が飛んだ。それは、島原の乱として知られている農民一揆であった。

6カ月後の1638年4月15日、一揆が終わると島原半島の南半分のキリシタン住民が消えていた。12万の幕府軍からも多数の戦死者を出した。その上、この乱は、幕府とその政策に従って弱者を圧迫した大名に対する消えない批判の声となっていった。

乱の主な原因は、島原の松倉重政とその息子勝家、そして天草の寺沢堅高の悪政にあった。松倉は森岳城の築城工事に加えて、江戸城築城に自分の可能性以上の仕事を引き受けた。その莫大な費用を捻出するために、小さな領地の大名が、領民に重税を課して縛っていた。その上、大部分の領民が信者であったため、迫害、拷問、殉教が重なり、宣教師や信徒の代表者が殺された。苦しみ、残ったのは弱者であった。

彼らの声が幕府まで届く道はなかった。そこに数人の浪人が入り群衆を指導し、一揆の波が森岳城まで進んだ。一揆がおきたとき、*1松倉勝家は江戸にいた。充分な武器がない農民たちは堅固な城に入ることができず、江戸からの幕府軍が近づくと次第に退却し、ついに古い原城に立てこもった。

この時代の他の農民一揆は、ほとんどの場合、数人の指導者の首をはねることで終わっていた。しかし、この一揆は、農民のほとんどがキリシタンであったため、許されるという希望はなかった。

次第に人間からの支援や許しの希望が無くなると、籠城していた人々の信仰心が強くなり、一揆の最期は純粋な殉教となった。幕府陣営にいた松平信綱の子輝綱の「天草日記」が、感動的にその場面を記している。

熊本・天草市 殉教千人塚
熊本・天草市 殉教千人塚

そのうえ、童女に至るまで、死を喜び、首を斬られた。
それは通常の人間ができることではなく、あの深い信仰の力である。

城は包囲され、海上からはオランダ船による砲撃もあり、食料も無くなり、最後の攻撃には、指導者の*2天草四郎時貞を含めて一揆勢の1万7千人が戦死した。落城の翌日、空濠や蓮池付近に身を寄せ合っていた老人、女性、子ども2万人ほどが打ち首になった。現在でも発掘作業のときに若い女性の頭蓋骨部分が、出土することがある。

2000年7月22日の午後、私は原城の本丸に立っていた。
 あの悲劇からすでに360年以上が流れているのに、そこではそよ風と波の音と同時に土の中からうめき声が聞こえるようであった。それは圧迫された弱者の叫びであったが、その日、その叫びに心を開くように促した二つの出来事があった。

昼には犠牲者の冥福を祈るために地方の諸教会から集まった信者たちと、大きな十字架の下に置かれた祭壇の前で北有馬の寺院の僧侶と島原教会の司祭が、昔、行われたすべての不正のために互いに許しを願い、声を合わせてアシジの聖フランシスコがうたった平和を願う祈りを唱えた。

そして日が暮れると、東京の観世流による薪能「原城、はるの城」が演じられた。かがり火の紅い光の中で天草四郎が死ぬときに二人の天女の姿が重なって十字架となっていくと、原城の土中からの声と能のおごそかな声がいっしょになって、はっきりしたメッセージを伝えた。「主は流された血に心を留め、貧しい人々の叫びをお忘れになることはない」。(詩編 9.13)


注釈:

*1 松倉勝家[1597-1638.8.28]
 江戸時代の大名。長門守。
 松倉重政の嫡男。1631年に遺領を継ぎ、先代に倣ってキリシタン禁制と重税の策を行った。寛永10年代に続いた不作により、1637年に農民一揆(島原の乱)がおこった。江戸から、幕府の派遣した板倉重昌と松平信綱とともに国元に戻り、一揆軍の立てこもる原城を攻撃し、一揆を鎮圧した。原城落城後、乱の責任を問われて、城領没収のうえ、森長継に預けられ、佞臣(ねいしん)登用、領民虐待など苛政(かせい)によって斬首された。
*2 天草四郎時貞[1622ごろ-1638.4.12]
 島原の乱の指導者とされる少年。本名、益田四郎。
 関ヶ原の合戦の後、肥後の国宇土に帰農していた小西行長の遺臣益田好次の子。
 天童として、数々の奇跡を行った美少年として伝えられている。

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