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マルコで祈る

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ポインセチア



何か見えるか

マルコ8.23


イエスがこのように質問するのは、
ここだけだ。
まだいやしきれていないということが、
イエスにはよくわかっている。
わたしたちはなかなか完全には見えるようにならない。
それをイエスは知っている。
だからイエスは、
何度も働きかけ続けなければならない。
だがわたしたちもそれをわきまえているようにと、
イエスは望んでいる。
わたしたちが、
自分は見えていないのだと気づくなら、
イエスに繰り返し、
繰り返し、
いやされたいと願うようになるからである。

イエスがファリサイ派に属してい当時のパウロにしたことは、
光で目をくらませることだった。
こうしてパウロ自身、
自分の目が見えていないと悟ったのである。
そうしてから、
イエスを主として認めるすばらしさを、
パウロに与えたのだった(フィリピ3.8)

まもなくイエスは弟子たちに、
同じ質問をすることになる。
イエスがだれに見えるか、
と質問するのだ。
「それでは、
あなたがたはわたしを何者だというのか」(8.29)
マルコは同じ質問を、
この福音書を読む共同体にも、
そしてわたしたちにも、
向けている。
イエスのパンに、
「わたしだ」というわたしの主ではなく、
幽霊しか見えないとすれば、
わたしたちはまだよく見えていないのだ。
だが、
見えるようになるためには、
まず二つのパン種という「うろこ」を落とさなければならない。


『思い起こし、物語れ』上 より


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