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「世界広報の日」講演会 in 長崎

2012/06/04


パウロ家族=聖パウロ修道会、師イエズス修道女会、そして聖パウロ女子修道会=の使徒職責任者たちは、2010年度から、「世界広報の日」を広く理解してもらうと、「世界広報の日」に出される教皇メッセージを中心にした講演会を開いています。

2010年度は、東京・四ッ谷の聖イグナチオ教会で鹿児島教区の郡山司教に教皇メッセージを解説していただき、また、司教や司祭たちのホームページの紹介と韓国の聖パウロ修道会をSkypeで結んで韓国の事情を聞きました。2011年度は、大阪・梅田のサクラファミリアで、大阪大司教区の松浦悟郎補佐司教に教皇メッセージの解説をお願いし、鹿児島教区の信徒である藤山義和氏にデジタル宣教の実際を話していただきました。そして今年は、長崎・カトリックセンターで、長崎大司教区の高見大司教に教皇メッセージの解説をしていただき、教区の広報委員の下窄英知神父に広報の現場から読む教皇メッセージと題してお話しいただきました。

それぞれの講演会のテーマは以下です。
  2010年第44回テーマ 「デジタルコミュニケーションにおける福音宣教」
  2011年第45回テーマ 「ネット社会における真実のかかわりは可能か」
  2012年第46回テーマ 「沈黙と言葉」

聖霊降臨前の土曜日は、パウロ家族では使徒の女王マリアを祝います。講演会の5月26日(土)は、ちょうどこの日に当たりましたので、カトリックセンターのすぐ前にある師イエズス修道女会の聖堂で、「使徒の女王マリア」のミサを行ってから、講演会の準備を始めました。

ミサ
「使徒の女王マリア」のミサ


長崎カトリックセンター
長崎カトリックセンター


カトリック浦上教会
カトリックセンターから見たカトリック浦上教会


ロビー
ロビーで講演会の準備をする3修道会のスタッフ


階段状の立派な会場には、ちょっともったいない数の参加者でしたが、「世界広報の日」についての講演会が開かれるのは珍しいということで、講演会の内容に興味を持った人や、福音宣教について知りたいという人々が集まりました。

会場の様子


今年の教皇メッセージのテーマは、「沈黙とことば」です。高見大司教のお話の中から、ポイントとなることばをご紹介しましょう。

高見大司教
高見大司教


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沈黙とことばが、バランスよくなされなければ、コミュニケーションは生まれない。沈黙はコミュニケーションをするためには、なくてはならない要素である。
「黙る」には、ことばを発しない以上の意味がある。静けさ、動きや喧騒がないなど、より宗教的意味がある。観想修道会の沈黙とか、神学校での沈黙がある。
「沈黙」とは、神さまの本質を示すことばである。神さまは、直接語らない。人間は、神を前にして黙ってしまう。
人間が沈黙するときとは、どんな時があるだろうか。集中するとき、注意するとき、魂が沈黙しているとき、放心状態、無気力、怠惰(何もしたくないとき)。話さない。黙秘権、発言を拒否する、などなど。
よい沈黙がある。イエスがピラトの前で裁きを受けたとき、イエスは、沈黙していた。これはよい沈黙である。相手に耳を傾けるとき、相手が話しやすいように、黙る。
悪い沈黙もある。話すべきときに黙っている。
教皇は、こう言っている。「沈黙がなければ、内容豊かなことばは生まれない。」
沈黙は、神との出会いを用意する。
聖書の中で神はことばなしで語られる。沈黙は神の愛を現すものである。


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続いて、下窄神父のお話です。

下窄神父
下窄神父


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サブタイトルとして、「聞くための沈黙、語るための沈黙」と付けさせてもらった。
司祭として神父として、人に話すとき、多くのエネルギーを要する。終わった後、反省するよりも、終わったことに安堵する。語るための沈黙の苦しみを体験していくと、イエスのすぐそばにいる弟子になったと思う。
聞くための沈黙:
コミュニケーションのための沈黙。口を閉ざせないときがある。混乱や冷たい雰囲気が生じる。背筋が凍る、生きた心地がしない。という表現となる。自分や相手が興奮してきたときに、相手が興奮がおさまるまで、自分が言いたいのを我慢して、まずは沈黙して、じっくり考える。つまり、沈黙する。
わたしたちが伝えようとしているのは福音である。もっともよいものを伝えるために、必要なことである。
語るための沈黙:
語るための沈黙を実践する必要がある。ますます豊かになる。「わたしたちのことばは、いかなる場合も神のことばを語るためには、不十分です。したがって、静かな観想のときを設ける必要がある。」
語るという使命感があって、わたしたちが黙想、観想をするなら、福音を告げ知らせたいという思いが出てくる。不十分であっても、告げ知らせたいという思いが出てくる。
教皇メッセージはわたしたち一人ひとりが福音宣教者になることを目指している。福音宣教はわたしたちの使命である、ということを感じとっていただければと思う。

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沈黙の大切さを、改めて考えました。「神は沈黙のうちにもわたしたちに語りかけておられるのですから、わたしたちも、沈黙のうちに神と対話したり、神について語ったりすることができます」「コミュニケーションのあり方を学ぶとは、話すことだけでなく、聞き、考えることを学ぶことです。このことは、福音化のために働く人にとってとりわけ重要です。沈黙とことばは両者とも、現代社会にキリストを新たに告げ知らせるための教会の広報活動にとって欠かせない非常に重要な要素なのです」という教皇メッセージのことばを受け、ことばだけでなく、心の沈黙について深めていきたいと思います。

第46回「世界広報の日(2012年5月13日)」教皇メッセージ(カトリック中央協議会サイト)    http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/sc/12sc.htm

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