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新世紀ルーツへの巡礼

目次

聖パウロ修道会の創立

聖パウロ修道会の誕生

印刷学校
    最初の印刷学校

印刷学校

アルベリオーネ神父は、1914年7月13日に、フランチェスコ・レ司教に出会い、自分の考えていることを話したのです。

その意図するところは、印刷、講話、カトリック・アクションのために働く、善良で熱心なプロパガンディスタ(普及者)を養成するということでした。そして、これを実現するために、印刷所を持つことが不可欠な条件でした。彼は、司教の許可を得て、印刷所を持つことになります。

レ司教は、この新しい企画に賛成も反対もしませんでした。
 それから2週間後の7月30日のこと、アルベリオーネ神父は、小さな印刷所に必要なものをみなそろえたのです。その場所は、市場に近いケラスコ広場に面する借家でした。このためには多額の費用が必要で、寄付を集めたりしていました。わけても、最初の印刷機は、代父であり、叔父であるヤコブ・アルベリオーネが購入してくれました。

この同じ場所、ケラスコ広場で、聖パウロ修道会は、「Scuola tipografica piccolo operaio(イタリア語で、小さな労働者印刷学校の意味)」の名をもって誕生したのです。それは未来の聖パウロ会の一粒のシード(種子)、シードの中で最も小さいからし種の一粒だったのでした。

アルベリオーネ神父は、この日は8月20日であったと言っています。その8月20日は、教皇ピオ10世が地上の生涯を閉じた日、教会博士であり、激しい使徒職と最も高い観想とを調和させることを知っていた聖ベルナルドの祝日、そして、まさに第一次世界大戦がはじまったところでした。しかし、その日に、実際にそこにいたのはアルベリオーネ神父だけでした。

最初の入会者グループ
    アルマーニ少年

印刷学校
    印刷学校

最初の入会者コスタ少年は22日の夜に、アルマーニ少年と協力者マロッコ青年は、その翌日23に到着しました。

アルベリオーネ神父は、8月24日に、家と機械を祝別し、神のいつくしみによりたのみ、この小さなグループで、小さな印刷工場をはじめることができました。そこには、少年たちのために1台のベッドがあったのですが、アルベリオーネ神父のためには何も無かったので、彼は神学校に休みに行きました。神学校に行く時間がないときには、印刷学校 ― 小さな労働者印刷学校は通常、こう呼ばれていました ― の入り口においてあったソファーの上で休んだのでした。

この印刷学校で最初に印刷されたものは、アルベリオーネ神父とプリエロ神父共編の、カテケージス(要理)の本でした。この本は決して美しい出版物とよべるものではありませんでしたが、一粒のシード、小さなからし種が一粒、地にまかれたときといえます。
アルベリオーネ神父は、修道会創立40周年のとき、回想してこう書いています。

 本会(聖パウロ修道会)は1914年、大変動のさなかに誕生した。7月の終わり― 印刷所の購入契約をしたばかりのとき ― 最初の宣戦布告があり、やがて世界大戦へと進展していった。

◆ 神の働き方について:

 摂理は、神の普通のなさり方に従って、強くかつやさしく(知恵の書 8.1) 働いた。
 つまり、目的に従って幾多の道をととのえ、それらの道を目的に向けて集中させる。照らすとともに必要な援助でつつみ、自分の時を平和のうちに待たせる。いつも馬ぶねから事を始めさせる。その働き方はあまりにも自然だったので、容易に恵みと自然との区別をすることはできないほどだったが、確かなことは、双方ともに働いたということである。

 他方、神が摂理のみ手を延べるよう、強いて試みる必要はない。
 ただよく警戒し、その導きに身を任せ、さまざまな義務を遂行するとき、知性、意志、心、体力・・・ を投入するように努力すれば充分である。

 人はいつもあまたの不完全、欠点、誤り、不足や自分の行動についての疑いを持っているので、神のあわれみのみ手に全く身を委ねて、その導きに身を任せる必要がある。
 けっして摂理のみ手を強いることがないように。
ともに働く人々を探して

アルベリオーネ神父は、神学校での霊的指導と教授の職を続けていたため、まだ多くの時間を神学校で過ごさねばなりませんでした。そのため、編集や印刷の分野、また、徐々にふえていく志願者の教育や養成のために、協力者を喜んで受けいれていました。

印刷技師としての協力者は、ジョバンニ・バッティスタ・マロッコ青年でした。彼は組版の専門家で、印刷技術を若い志願者たちに教えました。もう一人の協力者は、マロッコ青年の先生でもあった、ジョゼッペ・ローザ神父のはずでした。彼は非常に活動的で、すばらしい説教師でした。しかし、ローザ神父とアルベリオーネ神父が同調していくのには困難がありました。それというのも、彼の目指すところと、アルベリオーネ神父とは別の目標に向かっていたからです。そこで、彼らはまもなく別れることになりました。

小さく細々とはじめられた聖パウロ修道会は、同じ月の8月からはじまった第一次世界大戦の荒波をもろにかぶったのでした。アルベリオーネ神父は、当時を振り返りこう述懐しています。

モンテパプリオーロ畑

ティト神父とコスタ神父 。そしてかれらに加わったアムブロジオ神父と、マルチェリーノ神父は、最初の4年間のパウロ家の中で、最も寛大で利発だったということをいわねばならない。
 ほんとうに聖霊はかれらのうちに働いていた。
 当時はただ神への信仰と愛だけが、聖パウロの最初の子たちを支えていた時代だった。
 わたし自身の生涯でかれらほどの信心、徳、献身を備えた人にはまれにしか出会ったことがない。
 外的困難・・・・主は、それらに多く出会うようにはされなかった。そういうことにふさわしくもなかったし、困難に耐える力もなかったからである。ただし 1914~1918年の世界大戦は、本会にとって非常に大きな試練であり、さしもの第二次世界大戦(1939~1945年) も、あれに比べれば 5分の1ぐらいにしかあたらない。

 まことの困難はいつも内的なものだった。著述家である司祭、使徒職にまで高められた技術、すべての人と現代的思想にまで浸透するほどの普及術という三つの概念を明確にし、それらに向けて方向づけをすることであった。
 人の間では、いつでも誤りが起きるものである。主はその御あわれみと聖性ゆえに、高ぶる者を常にへりくだらせる。

 多くの聖務をかかえていたので、日中余儀なく他の教育者たちの手に若者を委ねざるを得なかった。
 この教育者たちは、善良ではあったがパウロ的精神に順応しきれず、まるで印刷業という職業を身につけなければならない孤児院の子供たちのように教育していた。
 必要なことを言うことさえできないこともたびたびあった。黙するより仕方がなかった。
 だがこの最初の4人はきわめて忠実、賢明で、受けた指針に従うのに熱心だった 。
 のちにこの4人のパウロ会員がローザ神父の労働者たちと別れることができると、ほどなく他の者たちも加わってきた。こうして、この修道家庭はうまく運ぶようになった。
 そこでわたしは、自分が不在のときもすっかり安心していることができた。というのは、生まれつつある家庭に対する会員の愛は、それほど深かったのである。

◆2--1 聖パウロ修道会の創立


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