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新世紀ルーツへの巡礼

目次

ローマへ

イグナチオの歩み

ローマ イエズス教会の十字架
ローマ イエズス教会の十字架

ローザ神父が、具体的にジャッカルド神父とその一行に何を話されたかは分かりませんが、聖イグナチオの生涯をたどってみると、確かに共通点が見られます。

聖イグナチオの生涯については、特集(バックナンバー:決断 参照)でご紹介したので、ローマに関することを中心に、いくつかをたどっていきたいと思います。


巡礼者イグナチオは、神からの特別の呼びかけを受けた後、いろいろの歩みがあり、彼は、熱心な祈りをもって神の導きを祈っていました。

「私はローマであなた方に恵みを与える」との、神の約束を聴いたイグナチオは、マンレサで受けた照らしの確信と信頼をもって、1537年にローマ入りしたのです。ここにおいてマンレサで受けた使命を実行することになるのです。

イグナチオは、同志をここに集め、将来の計画を立てます。

長い間、ベトレヘムで初ミサをささげることを願っていたイグナチオは、1538年のクリスマスに、ローマの四大バジリカの一つである聖マリア大聖堂でミサをささげました。神からの使命で、イグナチオにとって、ローマはエルサレムとベトレヘムになったのです。

長い祈りと討議の後、イグナチオとその同志は、イエズス会を修道会として組織し、教皇の認可を願うことを決定しました。

この道は決してたやすい道ではありませんでしたが、ついに1540年9月、時の教皇パウロ3世は「イエズス会」を修道会として認可し、公式の教皇勅書を公布しました。しかし、彼は反対者側の懸念を考慮して、会員の総数は60人と限定しました。しかし、この制限は、4年後には廃止されました。

1540年、教皇の認可が下った後、イグナチオは全会員の満票によって総会長に選出され、翌年4月に、イグナチオはイエズス会の初代総会長に就任したのです。

その3日後、6人の会員はローマの城壁外にある、聖パウロ大聖堂へ行きました。

大聖堂の脇祭壇においてイグナチオがミサをささげ、聖体拝領前に、イグナチオをはじめ他の会員一人ひとりは、清貧・貞潔・従順、および宣教派遣に関するローマ教皇への従順の誓願文を読み上げました。

ミサの後、みな本祭壇へ行き、そこでイグナチオは深い感動をもって各会員を抱擁しました。彼らの心は、深い喜びと平和とに満ちていたのでした。

修道会としてのイエズス会は、ここに成立したのです。


また、異邦人の使徒聖パウロの大聖堂において、この誓願式が行なわれたことも大きな意義がありました。

異邦人の使徒聖パウロの心は、いつも全世界に向けられていたように、新しく創立されたイエズス会もローマ教皇の指導の下に、世界の各地における福音宣教と人々の救いのために奉仕することを志していました。

1541年、イグナチオはローマにイエズス会の小さな本部を「サンタ・マリア・デラ・ストラーダ(路上のマリア)」と呼ばれる教会の側におくことができました。

1544年には、そこにイエズス会本部の質素な家を新築しました。この本部からイグナチオは、全世界に発展していったイエズス会を指導したのです。ここから、ザビエルもインド、そしてやがて日本へと旅だって行ったのです。これについては、Laudate の「日本カトリック教会の歴史」の「1.聖フランシスコ・ザビエルによる キリスト教の伝来」をアクセスしてください。

後に、そこにはジェズ教会と他の大きな建物が建築されましたが、イグナチオの活動の場であった小さな三つの部屋は、そのまま現在まで保存されています。

イグナチオは、教皇の命により、数年間に渡り、イエズス会の会憲作成にあたり、やがてイエズス会は全世界へと広がっていきました。


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