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新世紀ルーツへの巡礼

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ピエトロ・ボッラーノ神父の証言3

花

インタビューをしているのは、聖パウロ会会員ロアッタ神父です。

ロアッタ神父:
1931年に起こったことを話してください。

ボッラーノ神父:
 年の黙想のため 私はアルバに行きました。するとこの年の黙想の終わりに、アルベリオーネ神父は私を呼んでこう言われました。
 「あなたを、アメリカ合衆国に派遣しようと考えています。行きたいですか?」
 それで私は「はい」と答えました。
 彼はさらに、「しかし、私にはあなたにあげるお金がありません。アメリカまで行くために、そしてそこで何がしかのことをはじめられるために入用なお金を、自分で工面してください。アメリカは、ブラジルやアルゼンチンより、よほど困難なことでしょう」。
 それから私はお金を探しに行き、その年の9月、ニューヨークに向けて出帆したのです。

ロアッタ神父:
何か、頼りになるものをお持ちでしたか?

ボッラーノ神父:
 何一つ持ちませんでした。

ロアッタ神父:
言葉は?

ボッラーノ神父:
 英語なんぞ、一語も知りませんでした。

ロアッタ神父:
では、すぐに語学の勉強をおはじめになったのでしょう?

ボッラーノ神父:
 いいえ、そんな時間はありませんでした。
 ニューヨークに着くのは着きましたが、そのとき必要な証明書を、何も持ってはいませんでした。司祭として合衆国に入るためには、教区聖省の保証が必要だったのです。あるいは、修道者としてなら、すでに合衆国にいる修道会に招聘(しょうへい)されなければならなかったのです。この招聘者が、新しく入国する人の責任をとってくれることになっていましたので。
 それで私はあらかじめ、教区聖省に行ったところ、「あなたは修道者ですから、修道者聖省に行ってください」と言われたので そちらへ行きました。
 するとそこでは「あなたたちは、修道者聖省と何の関係もありません。あなたたちはまだ司教直轄修道会ですから」ということでした。
 それでもう一度、教区聖省に出かけましたが結局ただ在俗司祭という証明しか作ってくれませんでした。こんなところで私は出発したのです。
 とにかくニューヨーク港に着きました。ところがどうでしょう。港の中に不法入国者のための留置場にあてられた小島がありましたが、私はそこに閉じこめられてしまいました。
 私の乗ってきた船「ローマ号」はその港に1週間停泊した後、再びイタリアに向けて出帆するはずでした。それでその1週間、私を留置場につないでおいて後、本国に送り返そうという算段だったのです。

ロアッタ神父:
いやー、ものすごいパスティッチョ!(なんてでたらめな、とか、ごちゃごちゃしていることの言い方)

ボッラーノ神父:
 私は留置場の中で、言葉は分からず、何の援助も得られませんでした。

 けれども幸いにアメリカの司教団は、移民援護のために1つのグループを作っていて、そこにも事務所を置いていました。それで、その事務所で働いていた2人の娘さんが私を見つけ、何事が起きたのか知りたがっていました。
 しかし、私には言葉が分かりません。残念でした。ちょうどその時、一人の掃除夫に出会いました。
 彼は、シチリアーノ(シシリー島民)でした。
 さっそく彼は通訳をしてくれ、移民に関する仕事をしておられたモンシニョール・フォルミカに連絡してくれました。それから3日後、やっと彼と話すことができましたが、彼も、問題の証明書類がないものですから、何もなすことができませんでした。
 その時ふと思い出したのは、かつてローマで、一人のイエズス会士が私に、ニューヨークのとある教会の主任司祭をしておられたチェチリアーノ神父の名前を教えてくださっていたことです。
 そこでさっそくチェチリアーノ神父という人を呼び出してくださったのですが、「ボラーノと名のつく人は、どなたをも存じません」という返事でした。
 とにかくモンシニョール・フォルミカは、ご自分の責任で私を釈放させてくださいました。ただし、ミサをささげることは許されませんでした。
 かろうじて留置場から出してもらった私は、それからイエズス会士の教会に行ってきました。着いた時、あいにくチェチリアーノ神父は留守で、助任司祭しかおいでになりませんでした。
 彼は、私の一連の問題を知るよしもなく、2階に1室空いている部屋があると言って、私を通してくれました。そのうちに、チェチリアーノ神父が帰って来られました。私を見るなり頭に手をやってとても困った様子をなさいましたが、私を追い出そうとなさいませんでした。そこの修道院には、イタリア語のできるマルタ生まれの会員がおられて私にこう言われました。「明日、ロンゴ神父があなたを教区事務所にお連れになります。事態をどのように処理できるか伺いましょう」。
 私は恐ろしくなりました。何百人ものイタリア司祭が、不法にニューヨークとその周辺をうろついていたからです。
 教区事務所では、事態を合法化するようにと3日間の猶予が与えられました。そこで、すぐにアルベリオーネ神父に電報を打ちました。けれども返事はありませんでした。
 3日は過ぎ、再び私は教区事務所に出頭しました。「まあ何たること、あなたの長上は電報にさえ返信してくださらないのですか?」と、人々はあきれました。
 警官はもはや私を船に戻そうと決めていましたが、教区事務所の一人が、「まあまあもう少し時間を与えよう。ただしその間公にミサを立てないように」と言われました。
 それから教育修士会に行って、ひそかにミサを立てるようにしました。このように波乱に飛んだ1週間が過ぎた時、やっとアルベリオーネ神父から、証明書を送ったという電報がはいり、ほっとしたものです。
 それから9カ月間、私はイエズス会でお世話になりました。その間に、ニューヨーク市内に修道院を開く許可を教区事務所に願い出たのですが、あなたたちには何もすることがないとの返事でした。
 私はアメリカに着いたとき700ドル持っていましたので、翌年2月ごろアルベリオーネ神父は、「たとえあなたがそこに700ドル持っていても、何も仕事に着手できないのなら、それをこちらに返送してください。そうすればこちらから本を送ってあげよう」と手紙がきました。
 イエズス会士たちは、くり返し言うのでした。「どうして、証明書も依頼書も持たせずにあなたをおよこしになったのでしょう。少なくとも、どこかの枢機卿の依頼状でもあれば……?」
 これを聞くたびに私は、ある手紙の中で言われた アルベリオーネ神父の忠告を思いめぐらしていました。「枢機卿の依頼状など、私たちにはいりません。ただ神様の依頼状だけが必要なのです」
 このようにそのころは、非常に固い言葉をよくもらいました。それで、手紙を受け取ってもすぐにポケットにしまいこみ、聖堂で聖体訪問をする間に読むことにしていました。

ロアッタ神父:
十字架の道でしたね。

ボッラーノ神父:
 なかなからちがあかないで、人びとは私に他の都市を見に行ってはどうかと勧めてくれました。それでこのことをアルベリオーネ神父に伺ってみましたが、彼はがんといて動きません。
 「私はあなたを、ニューヨークに遣わしたのです。信仰を持ちなさい。聖パウロが道を開いてくれるでしょう」
 私は、この手紙をイエズス会の長上に見せました。すると彼は、「ほう、この方は他とは違いますね。他が皆反対の意見を述べているのに、道は開けるとおっしゃるのですから。この方は、聖人かもしれませんね。道はおのずから開けるということなのでしょう。ともかく、あなたはここにおいでください」と言ってくださいました。
 それからまたしばらく、ここでお世話になり続けたのです。
 そうこうするうちに、9カ月たちました。そのとき、やっとニューヨークに居住してもよいとの許可が下りたのです。しかし、修道者の共同体を設けてはならない、ただイタリア人のために何がしかの印刷だけをすること。他に2人の仲間を呼んでよいが、修道者としてではないこと、ということでした。
 私はすでに1931年10月3日にはアメリカに着いていましたが、他の2人は1932年6月の末に来ました。
 そこでともにささげた最初のミサは、1932年6月30日、聖パウロのミサだったのです。

ロアッタ神父:
その後は 順調にいきましたか?

ボッラーノ神父:
 はい、今日に至るまで何とか発展できました。
 50年以上たったいま、私たちのしていることが、使徒職であるということを、理解されてきています。いまでは、司教たちも他の修道会も、社会的コミュニケーション・メディアで使命をはたすようになってきました。しかし、あの当時は、みな、「とんでもないことだ。続けてもむだなのになぜ国に帰らないのか」と私にいつもいっていました。
 これからも、ずっと進歩するように望んでいます。

ロアッタ神父:
こうして聞いていますと、ボラーノ神父様に対するアルベリオーネ神父の態度は、他の方がたに対するのと異なっていますね。もう少し神父様が見た アルベリオーネ神父の像を、語っていただけますか?

ボッラーノ神父:
 わずかな言葉で言い現すのは、なかなか難しいですが、次のことは言えると思います。
 自分よりも三世代も先に生きていた人。ですから同時代の人から理解され得ないばかりでなく、反対されるようなことが飛び出していました。今日ではそれが、みなに受け入れられています。
 私が感じたことは、あらゆる人の言うこととは、全く反対のことを言うアルベリオーネ神父に聞き従ってさえいれば、主が、必ず、あらゆる困難を解決してくださる、ということです。
 彼は、「希望をもちなさい。進んで行きなさい。安心していなさい」と言っておられました。そして、万事が、彼の言うとおりの結果になっていきました。
 アルベリオーネ神父の生涯は、フラストレーションの一生だ、とも言えます。そして、同時に、実現の一生でもあったのです。主が、いつも、はからってくださったからです。


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