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新世紀ルーツへの巡礼

目次

パウロの娘の出発

4) シスターテクラのはじめての海外旅行へ

第二次世界大戦が勃発する前、シスターテクラは一人で、先に派遣したパウロの娘たちを訪問した旅行についてお伝えします。

現在のジェノバ港
現在のジェノバ港

大海原を越えての支部訪問

シスターテクラは、イタリアを回りながら外国に派遣されているパウロの娘たちを、自分で行って、見て、話して、聞く必要があることを感じていました。その上、アメリカのように状況の違うところで、何年も遠く離れている娘たちを元気づけたいとも願っていました。

1936年3月26日、ジェノヴァから中央アメリカ行きの汽船アウグストゥス号で出航しました。はじめての国外旅行です。その上、ひとり旅です。

今回の彼女の訪問には、パウロの娘たちが他の三か所に進出する準備も含まれていました。
 ブラジルのサン・パウロでは、小さいとはいえ、すでに印刷所での使徒職がはじまっていました。ここでは、『ア・ファミリア・クリスタ』誌の印刷が行われていました。この雑誌は現在も続いています。その上、パウロの娘たちは家も見つけ、書院も開き、やがてブラジルで中心になる修道院と修練院を建てるための土地の購入が検討されていました。すでに最初の入会者もありました。

シスターテクラは、6月3日にはアルゼンチンのサントスに向けて出帆しています。
 ここでも苦労の中、印刷機と断裁機と縫い機をもち、仕事をはじめていました。

シスターテクラは、ヨーロッパ中心のものの見方の転換という、今までに味わったことのない体験をしました。
彼女はこう報告しています。

中央アメリカはとても頽廃(たいはい)した環境です。
しっかりしていない人はすぐ信仰を失ってしまいます。ロシア人、ドイツ人、トルコ人、ユダヤ人、プロテスタント教会の信徒たちがいます。
イタリア人は一番多いのですが、彼らも環境の慣習になじんで生活しています。もちろんしっかりしたカトリック信徒たちもいます。りっぱな教会もあります。
ブエノスアイレスでは、聖体大会(1934 年)がとてもよい結果を生み、今なお感銘深く思い出され、話題にされています。……
私が会った方々はみな、出版、私たちの出版の必要、私たちの使徒職の必要を強調します……。
姉妹たちはできる範囲のことを、しかも犠牲と困難がいっぱいあるなかで、果たしています。……
各自が自分の意志から離れ、犠牲の精神に徹していくことが必要でしょう!

USA のシスターたち
USA のシスターたち

アメリカにはすることがたくさんありますが、パウロの娘一人ひとりが第一にすることは、「この世のために生きるのではなく、永遠をめざして生きること、地上のことではなく天をめざして生きる」ことであるとシスターテクラは言っています。

彼女は、最後の地、ニューヨークに到着します。教会法上の違反滞在の状態で待機していたパウロの娘たちは、パウロ会士たちの援助を受け、さらに一人のイタリア系アメリカ人の司祭が大司教を説得してくれ、この地で活動ができるようになりました。はじめはイタリア人だけとコンタクトをとっていたパウロの娘たちでしたが、行動範囲はだんだんと広げられていきました。

シスターテクラが訪問しとき、やっと法的に居を構え、最初のアメリカ人志願者を迎え入れていました。土地の購入のための借入も可能性があるのを確認できたので、その手続きのためにも彼女は再度訪問することを決めています。

この最初の旅行の帰路はコンテ・ビヤンコ号で、1936年8月27日にジェノヴァで下船しています。その2日後にはアルバで、パウロの娘たちと共に聖堂に入り、神に感謝の祈りをささげたのでした。この祈りは、彼女の訪問旅行の結び、またいずれ総統治のメンバーが各国への訪問を終えた時に聖堂に行き、姉妹たちと感謝の祈り、“マグニフィカト”を歌う伝統となり、今日も続けられています。

 再度の合衆国訪問 レックス号で

シスターテクラが2回目に合衆国に上陸するのは、翌年1937年。2月4日にニューヨークに到着しています。そして、2月27日には再び船上の人となり、ナポリで下船、3月6日にはローマに到着しています。

彼女の乗ったレックス号は、大西洋航路での旅行では最短距離で早いものでした。彼女はこう書いています。

レックス号のような巨大な船が枯れ枝のように波に打ちまくられるのを、想像してみてください。
波に打ち上げられるかと思うと、すぐに波の深い渦のなかに落ちこみ、打ちつけられ、揺り動かされ……かと思うと圧搾機の力にはさまれて泣いているかのようにきしみます。恐ろしいようです、深い思いに引きこまれます。
……私は船酔いしませんでした。みなが驚いて、あなたはまったくりっぱな船乗りだ、海の英雄だ、と言ってくれました。

当時パウロの娘のニューヨークの共同体は、スターテン・アイランドにありました。そこから、フェリーボートでニューヨークにかよっていたシスターたちはフェリーの常連利用者になり、みなに親しまれるようになりました。

シスターテクラは2回のアメリカ体験について「私が学んだこと」と題して回状を娘たちに送っています。

◆3--6 パウロの娘の出発


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