home > 女子パウロ会とは > 新世紀ルーツへの巡礼 > 6-パウロ家族と第二次世界大戦、その後 > 3) 偉大なる協力者、恩師の逝去

新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み

3) 偉大なる協力者、恩師の逝去

カノニコ・キエザ神父
  カノニコ・キエザ神父

1946年6月、アルベリオーネ神父は、パウロ会のよき協力者、恩人、指導者であったカノニコ・キエザ神父を失います。

6月14日、アルバ神学校の最愛の恩師カノニコ・キエザ神父が、聖コスマとダミアノ教会で亡くなりました。彼は、パウロ家族にとって修道会創立の偉大なる協力者、恩人、賢明な助言者、後援者でした。

彼は司祭としての霊性と哲学、神学、教会法……などの広範な知識をもって、アルバの神学校をはじめ教区や諸修道会に多くの貢献をしました。

アルベリオーネ神父は、カノニコ・キエザ神父が、彼の霊的指導者でもあったので、キエザ神父の死による喪失を非常に感じたのでした。彼は、キエザ神父との最初の出会いをこう語っています。

アルバの神学校の哲学コースに入ったとき、おだやかで、単純、敏速な若い司祭に出会いました。私はとても印象深く感じ、一人の少年に名前を聞きました。名前は分からなかったのですが、マリアを愛し、毎土曜日、私たちにマリアの黙想を指導しに来られ、たくさんの人の告白を聞かれるということでした。この日から私は彼を尊敬し、彼に信頼していました。彼は、将来の私たちの(カノニコ)です。

 彼のいきいきしたカリキュラムは、教区にとっても神学校にとっても、ことに聖パウロ会にとって模範的、建設的なものでした。

また、アルベリオーネ神父はこうも言っています。

私はいつも神のしもべフランシスコ・キエザ神父に、聖パウロ会のいろいろの段階で助言を受けました。
彼はすぐに必要を理解してくれました……。外部の印刷所に世話になっていたときに生じた数々の問題を乗り越えるために、自分たちの印刷所を持つという考えを起こさせてくれました。
……また、修道家族を形成するということ……など、すべてこれらは共通見解にいたるまで、長いことカノニコと討議し、彼は修正、認可、追加してくれました。

キエザ神父が使用していた書斎
  キエザ神父が使用していた書斎

アルベリオーネ神父は、キエザ神父が終わりが近いことを知り、彼を見舞いました。
 アルベリオーネ神父がカノニコの部屋にはいるなり、彼はアルベリオーネ神父の訪問に喜びをしめしました。この度は、彼がアルベリオーネ神父にゆるしの秘跡を受けることを求めたのでした。そして、アルバの院長であるジャッカルド神父を尊敬していること、アルベリオーネ神父の行っている働きに満足していることを表明し、その上「私はいつも、真のパオリーノ(パウロ会員)でした。決してこのことを後悔したことはありませんでした」とも言ったのでした。

ジャッカルド神父は、カノニコ・キエザ神父がパウロ家族を最後に訪問してくれたときの光景を、忘れがたい出来事として語っています。

それは、聖金曜日にパウロ家族一同が聖パウロ聖堂に集まり、朝の祈りを唱えているときでした。聖歌隊は、「見よ、義人はいかにして死ぬかを」という答唱詩編を合唱していました。

そのとき、突然、聖堂中央扉が開き、カノニコ・キエザ神父が入ってこられました。彼は、落ち着いた表情で、ゆっくりと、堂々と歩き、中央祭壇のほうに向かい、内陣の聖職者席まで来て、祭壇背後の歌隊席近くにひざまずかれたのです。

この間中、聖歌隊は「見よ、義人はいかにして死ぬかを」と合唱していたのです。この歌に耳を傾けてから、彼は立ち上がり、再び聖堂内を通って姿を消され、それ以後、ここに来られることはありませんでした。実にこの聖歌は、カノニコ・キエザ神父向けのものと言えます。

このとき、カノニコ・キエザ神父は、すでに自分の最期の近いことを予感していたのでしょう。その数週間後に病床に伏したのでした。

ジャッカルド神父は、毎日、彼を見舞っていました。アルベリオーネ神父が、自分の霊的指導者との最後の出会いのためにアルバの修道院を訪れたとき、ジャッカルド神父にカノニコ・キエザ神父の具合を尋ねると、彼は「何時ものとおり落ち着いていました」と答えたのです。
 するとそのとき、アルベリオーネ神父は頭を下げ、手を合わせながら、こう言ったのです。
「見よ、義人はいかにして死ぬかを」と。

カノニコ・キエザ神父は、1946年6月14日に天に召されました。このことは、今まで多くの、強い指導をいただいていたパウロ家族にとって、失うものの大きさを感じさせると同時に、これからは、彼が天から見守り、導いてくださるのだという確かな希望を抱かせることにもなったのです。

◆6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み


▲ページのトップへ