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新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み

5) パウロの娘、日本へ(1)

日本の最初のシスターたち
日本の最初のシスターたち

聖パウロ修道会の本部ローマでは、宣教地から帰ってきていた会員たちが、その地にシスターたちを招くべく、その必要性を解いていました。その中には日本の聖パウロ会を創立したパウロ・マルチェリーノ神父もいました。

彼は、日独伊同盟が結ばれていた間はまだしも、イタリアの連合軍降伏後は、スパイ容疑で逮捕され留置されたりなど、いろいろの意味で第ニ次世界大戦の混乱に巻き込まれました。聖パウロ会の修道院も出版社も空襲で焼けましたが、幸いにも会員は無事でした。

パウロ会員と新しく入って来た志願者たちは、焼け後を整理し、アメリカ進駐軍から払い下げてもらった兵舎を解体し、それを四谷まで運び、焼け後に質素な木造の修道院を建て、ささやかな出版布教を開始することができました。

1947年には、四谷若葉修道院の一角に中央出版社の建物がつくられ、出版による使徒職がパガニーニ神父の指導のもとはじまりました。1949年1月には、月刊誌「家庭の友」が創刊されたのです。

マルチェリーノ神父は、ローマ滞在中、日本の戦後の状況や、人々が目的を失い精神的な糧を求めていること、そこでのパウロの娘たちの福音宣教の必要性を説いていました。

パウロのように日本の町々を巡り、「イエス・キリストの光と熱の放射するセンター……教会と人々に奉仕する」書院を開き、イエスのように町々村々を巡り、家庭訪問をして、歩くみ言葉の使者となってほしいと熱意をこめて訴えたのでした。

パウロの娘たちは、耳を傾けながら聞き、心が燃えているのを感じていました。

シスターテクラは、日本への宣教女を選ぶために1日の「祈りの日」を設けました。1947年1月12日のことでした。

その日の夕食後、シスターテクラは宣教女の名前を呼び上げました。シスターイレネ・コンティ、シスターマリア・パルミラ・ベルナルディーニ、シスターロレンツィーナ・ノタ、シスタービンチェンツァ・カストロノーボの4人です。シスターイレネ・コンティが責任者と決められました。シスターマリア・パルミラとシスターロレンツィーナはまだ修練者であり、自他ともに驚いたのでした。シスタービンチェンツァは、イタリア系アメリカ人です。

シスターイレネ・コンティは、当時を思い出してこう言っています。

私が日本に行くようにいわれたとき、私は日本に行くことをほんとうに喜んでいました。でも、私はまだ若かったし、印刷のことだけしか知りませんでした。台所のことも、縫いもののことも、家のことはまったく何も知りませんでした。9歳で入会しましたから。

 ですから、印刷の仕事だけしかしたことがありませんでした。もちろん、小さなことは、プリマ・マエストラ・テクラから教えていただいきましたけれども、家のことは何も知りませんでした。

◆6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み


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