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新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み

7) 日本への派遣を受けたとき

シスターイレネ・コンティは、日本に来ることになったときのことを次のように語っています。

派遣を受けたとき、日本に院長として来る、と言われていました。姉妹のひとりとして来るなら、心配はなかったのですが。院長としては……ちょっと。ですから、私はお祈りしました。

私にとって、このことはほんとうに試練でした。私にはできない、と強く感じていました。
シスターテクラのところにいって私の困難を申しあげました。すると、シスターテクラは、そのことをアルベリオーネ神父に話しました。

そして、「アルベリオーネ神父が『いい』とおっしゃったから、大丈夫、心配いりません」とシスターテクラから言われました。
いろいろなことは習えます、大丈夫、と言われて、私の心は平和になりました。

彼女たちは、日本への出発の準備をはじめました。日本とイタリアの国交はまだ回復していなかったため、アメリカにまず渡たらなければなりませんでした。

教皇ピオ12世
  教皇ピオ12世

●その準備の最中、1947年春のことです。シスターイレネ・コンティ、マリア・パルミラ・ベルナルディーニ、ロレンツィーナ・ノタの3人の姉妹たちは、ピオ12世に宣教女としての特別謁見を賜りました。

●彼女たちは、「聖下、私たちは日本に出発するところですが、言葉もわかりませんし、何も知りません……」と話しました。すると、ピオ12世は、いつくしみのまなざしを向け、大きくほほえみながら祝福し、さらにこの冒険で起こるいっさいのことを何度も祝福されました。そして、「あなた方の宣教活動と内的生活のための祝福をあげます。内的生活!」と言われました。

それを耳にした彼女たちは、シスターテクラが全く同じことを言われたことを思い出したのでした。内的生活なしに、パウロの娘は何もできないからです。

1947年3月には一足先にシスターマリア・パルミラ・ベルナルディーニが、4月にはシスターイレネ・コンティと他の2人がナポリからアメリカに向けて出航しました。

宣教地への出発で喜びに満ちていましたが、日本への道はかなり長いものになります。ニューヨークに9カ月間とどまり、1948年1月に汽車で合衆国を横断してサンフランシスコに着き、14日、そこからフィリピンに向けて出帆し、横浜に着いたのは1948年8月6日です。

彼女たちを迎えに出ていたのはマルチェリーノ神父でした。船が予定よりも1時間早く到着したので、はじめはマルチェリーノ神父の姿を見つけることができず、不安でした。やがてマルチェリーノ神父は、「やっと、やっと」とタラップに向かって走って来ました。彼女たちにとってこの出会いは、言葉にならないほどの喜びでした。マルチェリーノ神父は、すでに万事整えたうえ、東京に日本家屋一軒を準備してくれていました。彼女たちは、阿佐ヶ谷に用意された家に向かう道中、戦渦の後をさらすがれきの山を見て、戦争がもたらした悲惨さに心が痛んだのでした。

阿佐ヶ谷の修道院
阿佐ヶ谷の修道院

阿佐ヶ谷では、東京出身の女性がふたり、すぐ、道や人の迎え方、家の住み方を教えに来てくれました。

玄関で靴を脱ぐこと、障子や雨戸の開閉……などを教えてもらいながら、彼女たちはそれぞれの民族の習慣に従っていくこと、その伝統を尊重すること、そこの文化を深く学ぶことは、シスターテクラがいつも教えていたことであったことを思い出していました。

最初に準備したのは、聖堂でした。シスターテクラは、「イエスがご一緒であれば、なにも不足はないでしょう。……私たちはいつもベツレヘムからはじまります。大きな信仰を持ってください。私は、あなた方と一歩一歩の歩みを共にしています」と、彼女たちより先についた手紙の中に書かれていました。

シスターイレネ・コンティは、「主がこの地に、私たちを連れてきてくださいました」と言っています。

シスターイレネ・コンティは、日本の地にパウロの娘たちの会を創設するという派遣を実現する歩みの中で、このことは確かに神の望まれたことであると確信させられたのは次のようなことだと言っています。

 まず、この創設の事業が神のご意志であったということは、私自身が長上たちから派遣を受けた者であるということのなかに感じました。
 私自身としては、準備もないし、困ったと感じていました。
 それでも、何回も私にくり返しいわれたことは、主が私を他の姉妹たち、シスターロレンツィーナ、シスターマリア・パルミラ、シスターヴィンチェンツァといっしょにここに来ることを望んでおられるということでした。
 ですから、私たちは従順によってここに来ました。
 だからといって、神への服従だけのためではありませんでした。宣教女となる、これは私たちが熱く望んでいたことでした。

 また、たびたび感じたことは、導いておられるのは主だ、ということです。
 いろいろな状況において、主は私たちを守ってくださいました。たとえば、東京でのことですが、この土地を見つけるまでの歩みで、主がほんとうに私たちを導いておられるのを感じました。私たちは別の土地に目をつけていましたが、それは、あとからわかったのですが、私たちにはよい場所ではありませんでした。しかし、主はこの土地に私たちを連れて来てくださいました。そして、それはとてもよい場所でした。これも一つの体験です。

 とくに召命について、この創設が神の望まれたことであるのを感じました。
 主はすぐに、とてもすぐれた、聡明な人々を私たちに送ってくださいました。
 私たちが言葉ができなかったにもかかわらず、彼女たちはよく理解し、召命を信じたのでした。私たちが話すことによく応えて、大きな助けとなってくれました。この人々がいなかったら、いまの発展はなかった、と私は確信しています。

 この二つのことは、主ご自身が私たちを導いてくださっていたという、大きなしるしだと感じています。

 私たちは、ほんとうなら準備ができていなかったのですが、はやばやと支部をつくりはじめました。最初の支部は福岡でした。召命をめざしての開設でした。長崎、福岡にはカトリック信徒が多いので、召命を見つける可能性も大きい、と聞いたからです。
 そこで、準備ができていたわけではありませんでしたが、司教様が私たちを喜んで迎えいれてくださるということもあったので、福岡に支部を開きにいったわけです。そのおかげで、私たちはすぐ召命を見つけることができました。もし、いかなかったら、出会わなかった人たちでした。

 それに続いて、他の支部も開設しました。すぐあとは大阪でした。そこでも、主が私たちを導いてくださっていることがはっきりわかる多くのしるしを見せていただきました。
私たちは、経済的に見て生活できるのかどうか、ということを考えませんでした。ただよいことをしたい、という望みと信仰で動いていました。
 アルベリオーネ神父がよくいわれたように、私たちがほんとうに使徒職をするならば、生きるための手段は必ず与えられる、というその言葉に信頼していました。
 主は、召命についても、経済についても、いつも配慮してくださいました……。
 使徒職さえしていれば、召命も経済もうまくいく、という創立者アルベリオーネ神父の言葉に、私たちは絶対的な信頼を置いていましたし、そのとおりになりました。

 私たちは日本人の召命を早く欲しくてたまりませんでした。はじめは、ひとりふたりですが、未洗者をも迎えいれました。
 はじめのころの召命には、彼女たちの側にこたえる姿勢がとてもはっきりと見えたので、あまり形式にこだわる必要がないという心が私たちにも起こりました。
 召命は神の祝福、修道会の宝と感じましたから、召命について私たちには信頼と熱意があり、門をたたく人たちに応じようとしましたし、入会のときに出会う種々の困難を乗り越えるのを助けるように努めました。

 主が彼女たちにくださった召命を感謝し、信頼をもって、入会の初期に出会う困難を乗り越えることです。
 困難や苦しみは、主の助けをいっそう深く味わわせる機会だからです。そして、同時に、それらは、受けた召命の恵みの大きさをも、私たちに味わわせてくれるチャンスだからです。

◆6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み


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