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信仰の挑戦 … 女子パウロ会 各国創設記

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第28回 ナイジェリアの創設   神のみ手の中の慎ましい道具


パウロの娘たちは、当時の教皇使節モンシニョール・セルジョ・ピネドーリからナイジェリアに呼ばれました。けれどもパウロの娘たちがナイジェリアに入国する前に、このモンシニョール・セルジョ・ピネドーリはカナダの教皇使節として出発してしまわれました。すぐに第一の困難が眼前に広がりました。シスターダニエラ・バロンケッリとイタリアから派遣された3人のシスターたちは、ある期間、コンゴにとどまらなければなりませんでした。コンゴとナイジェリアの関係は良くなく、ビザはいっこうに下りる様子もなく、宙に浮いたような状態でした。シスターたちが働くはずのカトリック司教議会の秘書局とは、まだ何の明るい関係も見られませんでした。

1964年10月15日、乗り越えられないように思われたこれらの困難を前にして、彼女たちは一つのことだけをしました。娘の信頼心を持ってシスターテクラ・メルロに取り次ぎを願ったのです。シスターテクラ・メルロは、ナイジェリアに私たちの修道院を設立することを非常に望んでいらっしゃいましたから。深い信仰を持って根気強く祈り続けました。そしてすべてはみごとに運んだのでした。ラゴスの大司教は優しく迎えてくださいました。ナイジェリアのすべての司教様方はシスターたちの存在や活動を喜ばれ、みな、自分たちの司教区にシスターたちが行くことを望まれたのでした。

シスターたちは、人々が密集していてにぎやかな地区、エブテ・メタ-35 ジョンズ・ストリートに家を見つけました。その家は以前、一人の高齢者が間借りをしていました。シスターたちはその人が、自分の商品を並べるために使用していた壊れかけの棚を利用して書院のようにしました。ナイジェリアのカトリック司教秘書局との最初のかかわりから、その関係はお互いの信頼が深まり、兄弟的なものになりました。パウロの娘の使徒職は秘書局自身の活動と思われるようになりました。

ナイジェリア  

ナイジェリアに到着してから2年後に、シスターたちは次のように書くことができるようになりました。

ナイジェリアの北から南まで、教会の高位聖職者から最後の宣教者まで、私たちの書院を天からのマンナのように利用してくださいます。こちらの人々はわたしたちの修道会の精神をよく理解し、その表情は、私たちの欠点、私たちの能力不足を覆うほど輝いています。すべての宣教者たちが、誠実で寛大に協力をしてくださいます。彼らの働きによって、わたしたちは謙遜になるように促され、神のみ手の慎ましい道具であり、修道会と私たちを鼓舞するパウロ的精神を誇らしく感じています。

家庭訪問のプロパガンダと書院だけでなく、団体への宣教活動と書籍の展示販売は、人々に関心と好奇心を起こさせました。「協力者」の小さなグループも生まれ、ラゴスなどセンターの普及を手伝ってくれました。

パウロの娘にとって、輝かしい展望を見ることができました。印刷、映画、レコードの活動が始まったのです。1966年11月3日、カトリック全国ラジオ委員会のメンバーとして、この活動に積極的に協力するように呼ばれたのです。一人のシスターがこの委員会の総秘書に任命され、プログラム制作準備と放送の準備に積極的に参加しました。

シスターたちは、新しい召命を求めて懸命に働きました。



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