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聖パウロ-わたしたちのお父さん

聖パウロ女子修道会 シスター井上真紀子

説教する聖パウロ


わたしが聖パウロ女子修道会に入ろうと思ったのは、本、CD、DVD、ホームページなどによる社会的コミュニケーション手段によって、宣教する使徒職に魅力を感じたからです。すべての人に福音を告げ知らせたパウロが修道会の保護者であることは、使徒職上、もっともなことだと思いつつも、当時はパウロに対してそれほど親しみは感じていませんでした。

その後、実際に修道院での生活が始まり、パウロの手紙を読んだり、彼の取り次ぎを願いながら書院や小教区で本の普及に励みました。日曜日に教会を訪問して、大勢の信者さんの前で本の紹介をすることもあり、引っ込み思案な性格のわたしには考えられないことでした。しかし緊張してあまり上手に説明できなくても、「シスターがさっき紹介してくれた本はどれですか?」とたずねて、本を買ってくださる方もいらっしゃいました。そんなときは自分ではなく、パウロが身近にいて助けてくださっていることを感じました。そして今は、彼が単に修道会の保護者だけでなく、本当にわたしたちの「お父さん」であることを痛感しています。

わたしの好きなパウロのことばは、コリントの信徒への手紙一1章22b-23節、「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」というところです。パウロの心はイエスへの愛でいっぱいに満たされ、「イエスのために何かせずにはいられない、福音のためなら何でもしたい」という彼の思いがひしひしと伝わってきます。

迫害者だったパウロは、ダマスコで復活したイエスと出会いました。それまで「律法によって救われる」という思いでガチガチになっていた彼が、自分の弱さと直面し、「その弱い自分を神は愛してくださる」ということを体験したのです。パウロは人生において、生きる意味を見いだしました。ロマ書では、次のように言っています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです(ロマ 14.7-8)。」

人は皆、心の底で人生の意味を求めています。わたしも聖書のことば、そしてさまざまな人をとおして、教会に導かれ、自分の歩む道を見いだすことができました。これは神様からの無償の恵みであると、感謝しています。神様の愛の素晴らしさを一人でも多くの方に知っていただきたいという思いで、今日もいただいた使命を生きていきたいと思っています。



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