home>キリスト教入門>聖霊講座>第5回 “聖霊の降臨”の出来事

聖霊講座

INDEX

第5回 “聖霊の降臨”の出来事


復活したイエスは、聖霊を待つようにと弟子たちに言い残し、天の父のもとへと帰ってきました。その姿を見た弟子たちはどのようにしていたのでしょうか? ルカ福音書では、次のように書いてあります。

(イエスは)祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
                        (24.51~52)
 

同じ作者による『使徒言行録』では、

彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。                                (1.14)

とあります。彼らは、一つになって祈りながらイエスの約束を待ちわびていたのでした。

そして、とうとうその日がやってきました。それは、過越祭から50日目にあたる「五旬祭」で、穀物の収穫を祝う祭りの日でした。ご存知のように、新約聖書はギリシャ語で書かれています。ギリシャ語で「五旬祭」のことを「ペンテコステ」(50日目の意味)と言います。この呼び名がそのまま『聖霊降臨祭』の呼び名になっています。

この「五旬祭」に、いったい何が起こったのでしょう。『使徒言行録』の続きを見てみましょう。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
                         (2.1~4)
 

旧約聖書で見たように、「風」は神からの霊、生命の息吹きです。これが地響きをたてるほどの強さですから、そうとうの強い意味があります。聖霊によって、まったく新しい人に創造されなおすのでしょうか。ヨハネ福音書に出てくる、イエスとニコデモの会話を思い出しますね。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3.3)
 

また、「火」も聖霊のシンボルです。火は鉄を溶かします。人間のかたくなな心を溶かしていくのでしょうか。また火は、あたためてくれます。冷たくなった人の心をあたため、生命の通った本当の“人間”の心にしてくれるのでしょうか。火は、焼き尽くします。汚れた部分を焼き、清いものにしてくれるのでしょうか。聖霊は、人間の心をあたため、汚れを清め、愛に燃えたたせてくれるのです。

「舌」は、神の言葉を語る力を思わせます。イエスが“聖霊”について語った、前回を思い出してください。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
                         (使徒言行録1.8)
 

ルカは、五旬祭の日に起こった“聖霊の降臨”の出来事を、実にリアルに描いています。そして、さらに続けます。

さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物
音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしている
のを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。
「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生ま
れた故郷の言葉を聞くのだろうか」
                        (使徒言行録2.5~8)
 

町の人々が飛び出してくるような音ですから、事の大きさが伝わってきます。そして、人々が体験したことは、言葉が違うのに「何を話しているか分かった」ということです。「あらゆる国」から集まって来た人々ですから、それぞれの言葉はまったく違ったのに、このガリラヤの人たちの言葉が「自分の使っている言葉で聞こえた」というのです。旧約聖書に、バベルの塔の話があります。(創世記11.1~9) 人間が神と等しいものになとうと高ぶったため、神は互いの言葉を混乱(バベル)させ、通じないようにしてしまいました。そのバラバラになった人間の言葉を、神は、聖霊によって再び通じるようにしてくださったのです。

語学能力のない私などは、私が日本語を話し、相手が中国語を話し、また別の人が英語で話しても、何を言っているかわかるようになったらどんなに便利かしら……(語学の勉強はしなくてもいいのですから)と思いますが、そういう意味ではないようです。

互いに通じる、つまり、弟子たちの言葉が、集まって来たいろいろの言葉を持つ人々に通じたということです。

これは、弟子たちに、神の言葉を宣べ伝えるための力が与えられた、人々の心に通じる言葉を語ることができるようになったということを言っているようです。その証拠に、この出来事の直後、集まった群集に向かって弟子たちは力強く語り始めるのです 。

ペトロは11人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。
「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。・・・・」
                          (使徒言行録2.14)
 

そして、ペトロは預言者が言っていたことから始まって、イエスのことを証ししていきます。

「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
                          (使徒言行録2.36)
 

イエスについての、なんと力強い宣言でしょう。そこに集まっていた人々は心を打たれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねます。

「悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
                          (使徒言行録2.38b~39)
 

「ペトロの言葉を受け入れた人は洗礼を受け、この日に3000人ほどが仲間に加わった」(2.41)ということです。このような出来事から、“聖霊の降臨”はキリスト教会の誕生と言われています。キリストの教会は、このように爆発的な勢いで全世界に広がっていったのです。

驚くべき出来事です。イエスが約束していた通り、弟子たちは「イエスの証人」となり、「福音を宣べる力」を与えられました。これが“聖霊”による洗礼です。

五旬祭の日に、大音響を聞いて家を飛び出し集まって来た人々。ペトロの話を聞いたこの人々の中に、時代を超えて私たちもいます。聖霊は「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられてるもの」なのですから。

『使徒言行録』2章14~36節で語られていることは、初代教会の信仰内容でもあります。
 今一度、群集の中に入り、私に向かって声を張り上げて叫ぶペトロの話《使徒言行録 2章14~36》を、じっくりと聞いてみましょう。

 
「聖霊講座」に戻る

▲ページのトップへ