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「改憲」と政界再編

「あけぼの」2004年1月号より) 酒井 新二

私はちょうど2年前の本誌1月号に「国家論ブームの意味と背景」という一文を書いた。あれから2年「国家論」をめぐる論議は徐々に一つの方向性を明らかにしてきたようにみえる。それは「将来の国家像」「国のかたち」を明示すべきだという主張である。その意味は小泉首相がとった露骨な「対米協調路線」に対する批判として、自民党内だけでなく、公明、保守の連立与党内にも、野党新民主党の中にもき隠然として形成されつつある。

総選挙前、自民党の元幹事長古賀誠氏は民放番組で「郵政3事業や道路4公団の民営化も大事かもしれないけれども、むしろそれは枝葉末節で、その前に21世紀の日本をどうするかという「日本国家の将来像」についての理念、哲学を示さなければならない。しかし小泉首相にはそれが全く存在しない。首相の態度はただ自民党をぶち壊せばいいとしか聞こえてならない」と痛烈に批判した。また中曽根康弘氏は小泉首相から定年引退を迫られ、その憤まんをぶちまけた際「これからは“憲法改正”を軸として政界再編の動きが近く必ずやってくる。今後私はこれを注視していく」と小泉政権を牽制した。


「天皇」から「日本国家」へ

「日本の将来の国家像論」は戦後の「新ナショナリズム」の核が最終的に「天皇」から「日本国家」そのものに収斂(しゅうれん)したことを示すものである。また総選挙のかくれた最大の争点が憲法改正問題であり、憲法前文の平和主義理念と第9条の戦争放棄条項の改正をめぐって、日本の主体的防衛体制すなわち日米安保体制の見直し問題が浮上する可能性をうかがわせるものである。古賀氏は政治上の師とした野中広務氏と共にアフガニスタン戦争時の「テロ特措法」審議で、イージス艦のインド洋派遣に反対し、「イラク特措法」でも反対を通したいわば理念・信念型右派というべき人物である。

古賀氏の主張は自民党の中で孤立しているものではなく、中山太郎(外交調査会会長)、福田康夫(官房長官)、久間章生〔元防衛庁長官)ら中堅と若手の石破茂〔防衛庁長官)米田建三、岩屋毅(衆院)武見敬三(参院)といった新旧“国防族”と密接な関係を保持している。ただ中山氏らは「北朝鮮の脅威がある現在、イラク戦争で米国を支持するしかない」との態度をとったが、彼らの本音は「米国支援を明確にしない場合、米国に見捨てられるかもしれない」という恐怖感を共有していたからである。これはいわゆる「国益優先」の立場であり、野中、古賀氏らはこのような主体的防衛戦略のない功利主義的国益論を批判するのである。今の若手の現実主義と戦前、戦中派の理念重視型との違いをよく示している。右派評論家の代表的存在である松本健一氏(麗沢大教授)も「小泉首相には国家デザインが欠けている」と次のように批判している。


「国家デザイン」がない

「小沢自由党党首(当時)から国連決議がない場合のイラク戦争への態度を問われて『その場の雰囲気だ』と答えるのは……その日暮らし、その場しのぎの発想であり、ポピュリズムそのものである。にもかかわらず、このポピュリストがあたかも一貫した思想をもつようにみえるのは、彼が日米同盟という機軸を譲らないからである。だがこの始めに日米同盟ありき、という立場に立って、かならずアメリカに追随してゆく外交政策は、本当に日本の国益になるのであろうか。それは日本の国家的エゴイズムつまり私益なのではないか。アメリカが19世紀的な意味での崩権国家であれば、それについていけば損はないともいえる。しかしそのような覇権国家の時代は終わったのである。

大量破壊兵器の『証拠』がなお発見されないばかりか、アメリカ自身が『占領統治』の失敗を認め、国連への統治の移譲さえ唱えられている現在、それは明らかなことではないか。日本が国益を主張するにせよ、それには新たな歴史を担う国家デザインが不可欠なのである。またその新たな国家デザインにおいてこそ、イラク戦争に『大義』を求め続ける日本の自立的な国家原理が一貫するのである。」(「論座」2003年11月号「米国追随は本当に『国益』か」)


「重武装論」が登場

このような批判にもかかわらず、アメリカの冷徹な現実主義的外交政策によって、日本が「見捨てられる」恐怖感が伝わるにつれ、日本の政界には日本も重武装すべきではないかという論が公然と登場し始めた。2003年3月27日の衆院安保委で、民主党の前原誠司氏は「相手の基地をミサイルでたたくことは憲法上認められている。いまはアメリカに任せているが、それでいいのかという議論がある」と質(ただ)し、石破防衛庁長官は「検討に値すること」と応じた。自民の国防族と民主の強硬派とが底流で日本の重武装論で一致したことを示したのであり、この背後には「日米安保見直し論」が存在するといわねばならない。福田官房長官、阿倍官房副長官(当時)、石破防衛庁長官らが2003年3月から5月にかけて「憲法上核保有は可能」と発言して物議をかもした。現憲法下でもすでにこのような答えが飛び出すのである。「第9条改正」によって歯止めが外れた場合、日本核武装論がいっそう現実的意味をもってくることは間違いない。


「ナショナリズム」は共和的

私は2年前の一文で佐伯啓思氏(東大教授)の「国家についての考察」や福田和也氏(慶大教授)の「天皇抜きのナショナリズム」についてふれた。佐伯氏は「ユダヤ・キリスト教的絶対者としての神をもたないわが国において、個人を個人たらしめる精神的拠点となるものは国家であるのも当然だ」として国家の観念を再定義し、国家の意味と役割の再編成を試みた。それはかつて「絶対者としての天皇」をもっていた日本のナショナリズムが「天皇抜きのナショナリズム」を考えねばならなくなったことの率直な表明であった。古賀氏や松本氏の言葉はこのような政治思潮のひとつの結論を示している。しかし日本の将来の国家像の中身は何か。それは日本の右派からは明白に示されていない。

福田和也氏は2003年4月、雑誌「新現実」(VOL.2)で「天皇抜きのナショナリズム」を再論し、「皇室とナショナリズムは本質的に相容れないものであり、ナショナリズムは本来共和的なもので、国民主権においてはじめて成立する」と指摘した。このことはつきつめれば憲法第1条の「象徴天皇制」の見直しにも通ずるものであり、今後の国家論に一石を投ずるものというべきだろう。


著者紹介:
酒井 新二(さかい しんじ)
共同通信社社長を経て同社顧問。1986年、フランス国家功労勲章オフィシエ章受章。著書『カトリシズムと現代』『カトリックが拓く日本の道』『日本の進路・キリスト者の選択』ほか

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