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ある死刑囚からの手紙

「あけぼの」2004年5月号より) 新谷のり子


「今、私のもとに死刑囚永山則夫君から手紙が届きまして、新谷さんに自分の身元引受人になってくれるよう依頼して欲しいと……」

1997年7月31日の黄昏(たそがれ)どき、遠藤誠弁護士(故人)から突然いただいた電話の内容は、次の日から参加を予定していた黙想会への期待でいつぱいだった私には、全く予期できないものでした。

「永山則夫は飢えと貧困に喘(あえ)ぐ幼少期を過ごした後、主に横浜で日雇い労働などの仕事を転々としながら、自暴自棄に陥り、犯罪を犯して逮捕されようと思い立ち、1968年10月、横須賀米軍基地に侵入し、たまたま見つけた22口経の拳銃がその後の彼の人生を大きく狂わせ、結局4人の尊い命を奪う結果を招きました。当時19歳の少年でした。

逮捕後、彼は獄中で自らの行為を振り返り、自分をぎりぎりのところまで追いつめて反省し、その思いを綴(つづ)った獄中ノート『無知の涙』を書きました。それが出版されることが決まった時、永山は印税をそっくりそのまま、函館で殺してしまったタクシー運転手の遺児に渡すことを条件の一つに加えました。

その後も彼は、自らの犯した罪と向き合い、どうすれば自分のような過ちを犯す人間が生まれなくて済む社会が作れるかを真剣に考え続け、それを小説の形で次々と発表していきました。それは、1990年の死刑確定後も変わることがありませんでした。悲惨な犯罪を無くすために伝えることがある限り、書き続けることを自分の贖罪(しょくざい)の証としていたようです」(永山子ども基金コンサート趣意書より要約抜粋)

連続少年射殺魔ー永山則夫としてセンセーショナルに連日報道された事件は、同時代を生きる若者のひとりとして、私も大いに興味を持ちました。そして、ベストセラーになった『無知の涙』もある種の共感を伴って読んだ記憶があります。

当時の私は、あらゆる暴力、特に国家間の戦争を阻止するため、私たちに何ができるかを考え行動しておりました。死刑問題についても、死刑は廃止できないものか、死刑は本当の罪の償いにはなりえないのではと考えおり、自らの学習のために、その種の集いにも積極的に参加していました。

その私に、1989年秋、続いて1990年1月、獄中の永山則夫からの手紙が届いたのです。永山の手紙には、私の死刑反対の集いへの参加を知り、死刑廃止運動を唄で表現するための実在のモデルになりたいという内容のものでした。そして、彼自身の死刑廃止への考えも述べられておりました。今の時代の到来を予言するかのようなメッセージの重大性を、当時の私はおろかにも理解することができず、永山則夫は私の日常生活から消えてしまっていたのです。遠藤弁護士からの電話は、見て見ぬふりをし、逃避していた弱い私の目を覚まさせてくれました。そして、今度は逃げずに「はい」と答えることを決意したのでした。

1997年8月1日朝、「印税は世界の貧しい子どもたち、特にペルーの子どもたちのために役立てて欲しい。そのための運動スタートさせること」の言葉を残した永山則夫への刑は、だれにも知らされることなく執行されました。

遺言を託された私たちは、「永山子ども基金」を設立しました。

「なぜ、ペルーの子どもたちなのか」–––遺された言葉の真意を模索し始めた私たちに、「ペルー日本大使館への襲撃事件」がその解答となりました。獄中でこの事件を知った永山は、そのゲリラ組織の中に少年が含まれていたことを知ったに違いないと。「貧困が犯罪を生みだす温床となる社会を変革したい」の彼の言葉が強くよみがえりました。刑執行後、再び注目された彼の遺作への印税は1,400万円にものぼりました。それを、ナソップ(ペルー働く全国青少年運動)の活動援助にあてることとしました。

貧困からくる子どもたちの悲惨な犯罪は、世界各地で繰り返されています。貧困が生まれる構造の中で、あえぎ生きる大人たちのしわ寄せは子どもたちにきています。強盗、麻薬中毒、売春、虐待、ストリートチルドレン。

ペルーも例外ではありませんでした。ナソップは、働く子どもどうしをつなぎ、問題を話し合い、労働条件の良い仕事を探したり、生活向上を目指す組織で、ペルー全体で30の支部を持ち、会員は1万人。運営は子どもが中心で、大人のスタッフがサポートしています。

子どもたちとの交流、活動の状況を知る目的で1999年8月ナソップ訪問が実現しました。クシアノビッチ神父をはじめ、たくさんの子どもたちが私たちを熱烈に迎えてくれました。ナソップの中心的な活動を担っていた17歳のパトリシアは、自分の体験を話してくれました。

「7歳のころ、路上でお菓子売りをして働き始めました。ペルーでは約150万人以上の子どもが働いていて、私はその一人でした。ペルーは、教育現場で子どもが虐げられる体罰が平然となされます。家庭でもです。9歳のころ、ナソップと出逢い、状況が一変しました。自分にも人権があり、大切にされる存在なのだと学んだからです」

「私たちが求めているのは、同情されることではない。子どもは半人前で何も考えられないと決めつけないで欲しい。私たちを一人の人間として認めたうえで、私たちが貧困に立ち向かい、現状を打破するための願いに、大人も耳を傾けて欲しいのです」

国連「子どもの権利条約」を含め、「児童労働の禁止」が国際的に叫ばれている現在、ナソップの子どもたちの活動は逆行しているかもしれません。それでも、11歳のリサンドロは胸を張って「働く中で学び成長してきたし、自分の活動に誇りを持っている。『あるべき姿』ではなくて、働いて生きることは権利だと思う」と、熱く語ります。

そして、ナソップの何百人の子どもたちの共通認識として、「ぼくらは、人は変われることを証明してくれた永山則夫を尊敬する。だけど、ぼくらは永山則夫のような殺人者にはならない」ときっぱりと話してくれました。貧困と幸せは別の問題としてあり、真の幸せは仲間が助け合い、差別をなくし、人間としての尊厳を認め合える社会……。

「第2、第3の永山を出さないで」と、永山則夫が渇望していた願いは、しっかりとペルーの子どもたちの中で生きていました。

今、世界中の子どもたちの声を、真剣にしっかりと受け止めるときがきています。


著者紹介:
新谷のり子(しんたに のりこ)
「フランシーヌの場合」でデビュー。「人権学習」の講師ほか独自のコンサートで活躍中。著書『フランシーヌはたち』、アルバム「祈り」「うたたち」ほか。

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