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「教育基本法」改正とは

「あけぼの」2004年6月号より) 酒井 新二


最近のカトリック新聞の声欄に教育基本法(以下「基本法」)改正問題について、全く相反する意見が取り上げられている。一つは東京都教育委員会の「日の丸・君が代」強制に反対する「教育に心の自由!」裁判の原告団の一人となった信徒の声(3月7日号)であり、もう一つはこれに反論したものである。(3月21日号)

前者は「基本法」改正論の特徴は「愛国主義」と「能力主義」の強調であり、両者が組み合わされれば“国益”という名の下に国家が国民(個人)に「戦争」を命じることになりかねない。アジア各国への侵略のシンボルであった「日の丸・君が代」の、処分を伴う強制は決して許されない、というものである。後者は「日の丸・君が代」が軍国主義に通ずるとは思えない。神を愛する気持ちと国を愛する気持ちは矛盾しない。教会は国家そのものの存在を否定しない。家庭崩壊、学級崩壊、性道徳の乱れなどの原因は今の教育基本法による戦後教育だと指摘されているから、キリスト者は「改正」を支持するのが妥当と思われる、というものである。

また同紙3月14日号によれば「日本正平協」が2001年にカトリック学校に出した「日の丸・君が代・元号についてのお願い」に対する学校側の対応が報告されているが、そこにも2つの姿勢が読みとれる。

戦時中の“靖国参拝”をめぐってカトリック学校が軍部の弾圧を受けて苦悩した事態にも似た学校幹部の悩みがにじみ出ている。

カトリック者の中に「基本法」改正について相反する2つの見解が存在することは事実だが、それを単に「思想、信条の自由」の現れとして放置していいものだろうか。「イエスの福音」の教えに照らして、いずれが妥当かを鮮明にする必要がある性質の問題であるように思われる。


キリスト者中心の成果

「基本法」は前にも指摘したように敗戦直後の1947年に軍国主義的価値観を象徴するいわゆる「教育勅語」体制を廃し、民主国家の教育理念を打ち立てるために、田中耕太郎、森戸辰男、山崎匡輔、前田多門、南原繁、矢内原忠男といった当時のカトリック、プロテスタントの第一線級の知性が中心となって作り上げたものである。(拙著『キリスト者の選択』228ページ)

「基本法」の目的は第1条に規定されているように、「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」というものである。

ここに明示された理念は、我々が見れば、それがキリスト教的普遍主義に合致するものであることは明らかであろう。戦前・戦中の「超国家主義」の中身を形成した「明治憲法」「教育勅語」「軍人勅諭」という絶対主義的天皇制に立つ国家主義体制を抜本的に改変し、新しい教育理念を提示するものであった。戦前の軍国主義の弊害と太平洋戦争の悲惨な実態を経験した大多数の国民は、この教育理念を率直に受け入れたのである。「日本国憲法」がマッカーサーの占領政策を成功させるため、昭和天皇のカリスマを利用する目的で“象徴天皇”という形で“天皇”を温存したのに比べれば、「基本法」は、より純粋に「戦後民主主義」の理念を表現したものということができる。


的外れな改正論議

今「基本法」改正論者がいう家庭崩壊、学級崩壊、性道徳の乱れ、少年犯罪の増加などをすべて『基本法」に起因しているかのようにしているが、これは全く的外れの議論である。「戦後教育」の欠陥は、文科省(旧文部省)が中心となって推進した教育行政の多くの誤りと、もう一つは文科省当局と日教組との長期にわたる不毛の政治闘争の結果であるところが大きい。ちょうど、「日本国憲法」の理念が、その後、外交的努力によって平和理念の実現のためアジアの多国間安全保障体制の構築に向かわず、ひたすら「日本安保」という二国間軍事同盟に依存して行き詰まったのと同様である。

学校教育の現場の閉塞状況、学力低下による国際競争力の弱化を恐れる経済界からのエリート教育の強い要請に押され、文科省は2003年3月20日の中教審答申「新しい時代にふさわしい基本法の在り方について」を出した。そこに示されたのが「愛国心」「公共精神の涵養(かんよう)」「日本の伝統、文化尊重」「個性に応じて自己の能力を最大限に伸ばす」などである。

ここから読み取れるものは従来の「学習指導要領」を上限としてきたのを改めて、それを「最低基準」とし、能力に応じて「発展的学習」を認め、習熟度別のクラス編成を導入するいわゆる「エリートと非エリート」の「分断」を取り入れる姿勢といわれるものである。このような教育政策は「基本法」の理念に全く反するものであり「教育の退廃」を示すものといわねばならない。このような“退廃”の結果、予想される教育現場の荒廃と社会的不安を吸収するために「愛国心」や「公共心」が戦前のほこりを払って持ち出されたのである。

この「新国家主義」は、再び「国家」を「個人」の上に位置づけ、事実上、時の権力の統治を“国家”の名において実現しようとするイデオロギーである。


キリスト教的国家観

キリスト教は「国家」を否定するものではない、あくまで「国家」は、神の創った「人間」の尊厳を支えるものであり、「人間」の人格を完成するための法的、政治的手段、システムと考えるものである。このような国家観こそがキリスト教的なものである。「個人」にはいうまでもなく社会的責任が伴うものだが、それは「個人」が社会を構成し、共存共栄するためのルールである。カトリックという「共同善」とはそのようなものである。キリスト教の理念は「国家」を認めるが、それを超え、地球的、人類的次元を常にめざすものである。


著者紹介:
酒井 新二(さかい しんじ)
共同通信社社長を経て同社顧問。1986年、フランス国家功労勲章オフィシエ章受章。著書『カトリシズムと現代』『カトリックが拓く日本の道』『日本の進路・キリスト者の選択』ほか

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