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ベイルート1982年

「あけぼの」2005年2月号より) 新谷のり子


ヤセル・アラファト氏の逝去

2004年11月11日、パレスチナ自治政府議長ヤセル・アラファト氏が逝去しました。晩年、イスラエルは前議長を「テロリスト」と位置づけ、ブッシュ政権下のアメリカでもアラファト氏を「障害」とみなし、氏がヨルダン川西岸ラマラの議長府に軟禁状態になってからは、その存在すら無視し続けていたように思えていました。

しかし、イスラエル建国に伴いパレスチナの地を追放され、アラブ各国で難民となることを余儀なくされた人々や、イスラエルの占領下で貧困、暴力、絶望と共に生きる人々にとっては、アラファト氏はパレスチナ人の尊厳と生きる権利獲得のため闘い続けたフェダイーン(自由の戦士)であり、偉大なカリスマでした。パレスチナ独立国家樹立の悲願を現実へと導いてくれ、志なかばで倒れた「パレスチナの父」として、永くその記憶にとどまると思います。権力への執着、巨額な遺産等の闇の部分をも含む功罪の評価は別としても。

私の手元に、2004年11月21日付けの「カトリック新聞」があります。そのフロントページに、「教皇が認めた指導者、アラファト議長死去」というキャプションと共に、1996年12月バチカンで教皇と会見したときと記された一葉の写真が掲載されております。教皇に按手され、頭をたれ少年のようにはにかむアラファト氏、そして父の元に帰った息子を慈しみを込めて迎えるようなまなざしの教皇。肉厚でマシュマロのように白くやわらかい、見覚えのあるアラファト氏の手。その写真をあきず眺め、思わずほほえみ、そして暖かい涙が溢れたとき、私はやっと前議長の帰天を受け入れることができました。

私は、生前の前議長とお目にかかるチャンスを3度いただきました。1989年10月東京で。そして2002年2月と6月にラマラの議長府で。イスラエル軍の侵攻、爆撃によって一部瓦解(ががき)しかかっていた議長府の一隅での会見が想い出されます。

「昨日、シモン・ペレス外相(現イスラエル労働党党首)が話しておられました。パレスチナ建国には若者の力が必要です。自爆攻撃を停止させて下さい。苦しみや貧困は理解しています。互いに善き隣人が必要ですとアラファト議長にお伝えください」と。私たちの代表の発言を受けて、「シモン・ペレスはとても良い人です。しかしシャロンが……」と、言葉を濁したアラファト氏の表情は、笑顔から苦渋へと変化していました。

ヤセル・アラファト前議長とアリエル・シャロン首相とは仇敵(きゅうてき)といわれ、互いに相手を「テロリスト」と呼び合い、マスメディアは2人を「宿命のライバル」報じていました。


あのときの子どもたちは……

1982年6月、内戦の続いていたレバノンにイスラエル軍が侵攻し、その指導をしていたのがシャロン氏でした。9月にはベイルートにあるサブラ、シャティーラ、ビーア・ハサンのパレスチナ難民キャンプで大虐殺が起きました。1,800人以上のパレスチナ人が殺害され(国連でも正確な死者数は不明とされた)、6,000人以上の子どもが孤児となりました。世界各国のメディアも「サブラ、シャティーラの大虐殺」と報じ、パレスチナ難民へも耳目が集中しました。

この虐殺現場に最初に入ったジャーナリストとして、世界中からその報道写真が高く評価された広河隆一さんが団長となって、アジア・アフリカ作家会議の派遣団が編成されました。その一員として、私がシリアのアドラにあった「殉教者の子どもたちの教育都市」名付けられた孤児の収容施設にパレスチナの子どもたちを訪れたのは、1983年8月のことでした。「8月6日、今日は私たち日本人にとっても悲しい記念日です」。アドラでの交流コンサートの冒頭に、私はこのような挨拶をしました。そのとき、ここに収容されていた0歳から17歳までの少年少女430人の中から「ヒロシマ!」という声が上がりました。日本人では大人でさえ、広島、長崎に原爆が投下された日との認識が希薄になっているのにと、あの状況下で「ヒロシマ」に即応した子どもたちに感慨もひとしおでした。銃口に身をさらされながら戦場に生きる子どもたちに、訪問者を慰労する思いやりが溢れていました。

当時は10歳だったモナという少女を想い出します。とても人なつっこい子どもたちの中で、なんて哀しそうな瞳をした子だろう……が、私の印象でした。握った私の手を離そうともせず、「アブ・アマール(アラファト議長)はみんなの父さんだよ」「アブ・アマールに会いたい」と、くり返し、くり返し訴えていました。「ビラーディ・ビラーディ(祖国よ)」というナショナルソングを、いつも大きな声で唄っていた子どもたち。まだ見ぬ祖国パレスチナへの切ないほどの憧憬が、子どもたちの希望をつないでいました。虐殺を生き抜いた子どもたちへの支援として、広河隆一さんの提唱で、「パレスチナの子どもの里親運動」が1984年から始まりました。

20年という時が流れていきました。今あのときの子どもたちはどうしているだろうかと思います。[大きくなったらどうしたい?」との私の問いに、瞳を輝かせて「アブ・アマールのようなフェダイーン!」と答えた男の子。「傷ついた人を助けたいから、看護婦!」と答えた女の子。新しい命を育む親となっているのだろうか。それとも……。

アブ・アマール、アラファト氏の死を、どこでどのように受け止めているのでしょうか? 教皇は、イスラエルとパレスチナが早期に和解して、2つの独立した主権国家として共に生きることができるように祈っておられます。そこに至るまでは、まだまだイバラの道であるとしても、勇気を持って歩み出す……新しい年は、そうあって欲しいと祈ります。

     私の娘を見ませんでしたか
     背中を撃たれて倒れた娘を
     けれど、
     あの娘はまた生まれてきます
     今度は本当の私の国へ
     ベイルート82年
     これが私たちの生きてる世界

     あなたがたは平和を見つけましたか
     世界最強の翼の下に
     あなたがたは、
     勝利とよぶのでしょうか
     それがもたらした廃墟の街を
     ベイルート82年
     これが私たちの生きている世界
             (ベイルート1982年 詩・岡田剛士)

著者紹介:
新谷のり子(しんたに のりこ)
「フランシーヌの場合」でデビュー。「人権学習」の講師ほか独自のコンサートで活躍中。著書『フランシーヌはたち』、アルバム「祈り」「うたたち」ほか。

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